「ナダールと19世紀パリ」を始める前に
長尺で「ナダールと19世紀パリ」の話を始めたいと思います。
で、その前に「僕のパリ」に触れなければいけないな、と思った。
実は・・僕はパリだけではなく欧州19世紀に、何とも居心地の悪さを感じてしまうのだ。ありていに云うならば、19世紀に欧州で生まれたモノの大半は嫌いだ。重要性は重々判っているのだが、好悪でいえば・・手には、取ってみたくないモノばかりなのだ。手垢臭い・・すいません。本音です。19世紀アメリカ大陸を見つめる時のような"熱"を、僕は同時代の欧州へ持つことが出来ないのです。
音楽で云うならば。我が家で、ほぼかからない音楽家を列挙すると・・ははは♪幾らでも出てくる。ショパン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、マーラー、ブラームス、ロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、ベルリオーズ、サン・サーンス、フォーレ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、グリーグ、シベリウス、スメタナ、ドボルザーク、アルベニス、グラナドスと、まだまだ幾らでも出てくる。きらいだぞ。オマエら。
所謂ロマン派というやつかな。彼らの外連味(けれんみ)たっぷりな情感の"排泄"には、僕は・・個人的には・・不快さしか感じない。彼らの着ているフロックコートに沁み込んだ臭いを嗅がされているような不快感を感じてしまうのだ。
文学でいうならば。
シャトーブリアン、スタンダール、ラマルチーヌ、ヴィニー、バルザック、ビクトル・ユゴー、アルフレッド・ミュッセ、ボードレール、フローベール、エミール・ゾラ、ステファン・マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボー。
僕は、これらの作家の大半に新潮文庫で出会った。高校から大学にかけて、である。僕が彼らから得たものは「つまらない本でも最後まで読む」という習慣だけだ。
どうでしょうか?「手垢臭い」という語感・・感じてもらえるでしょうか?たまには洗濯しろよと思わず言いたくなるニオイと肌触り・・
20代の半ばに「40年ごしの生涯読書計画」として「岩波文庫の読破」を発心した時、視線に入っていたもう一つの"山脈"は、十代に馴染んだ新潮文庫だったのだが・・同文庫からずっと小さなボディブローのように受けていた、その"不快感"が、どうしても完全読破の対象として"新潮"を選ばせなかったのである。
僕は、よく笑い話として例える・・19世紀の欧州音楽・文学は「山岳写真」のようなもの。
たしかに、リストもマーラーもチャイコフスキーも、パルザックもスタンダールもゾラも、素晴らしい情感に満ちていて、いっときは夢中で全身それに染まるのだが・・ふと気がつくと。写っているのは、どれもこれも「山の写真」だけ。他には何かないのかよ・・という気持ちになって、一瞬で冷めてしまうのです。幾らなんでも同音異句が連々とこれでもか!と続き過ぎるでしょ。もう良いです。もうその話は聞きたくない・・という気分になってしまうのです。
好悪はどうしても描こうとする情景にデバイスをかけてしまう。僕が持とうとしている客観性とは、そんな程度のもの・・だから。僕が描く「前夜」としてのパリは、いつも以上に客観性を欠き、一人合点なポンチ絵なんですが・・判っているけど・・まあ続けましよう。19世紀パリを走り抜けたナダールという快男子の話です。乞笑許。