悠久のローヌ河を見つめて13/マリエとクロジェ01
開墾の時代が一周すると・・フランク王国における大規模葡萄園は、教会と貴族が独占するようになった。それは中世ローヌ川流域でも同じだった。
ローヌ川流域の大規模葡萄農園は、大半が都市に近い郊外ところへ設けられていた。ロジスティックを考えれば、それが一番効率的だからだ。
教会/修道士も貴族も、大規模葡萄農園の所有者は、生活の安全を確保するために城塞内の都市に暮しており、郊外に所有していた農園の管理と運営は"クロジェ"と呼ばれた農民に任されるようになっていった。
このクロジェという身分制度の確立が、中世のワインについて語る時の大きなキーワードになる。
クロジェはクロ(農園)の管理者である。僧ではないし、貴族でもない。それに使える者だ。
彼らは使用人として、その身分が保証されていた。世襲制である。収入は、収穫の良し悪しに関係なく、ある一定額が常に雇用主(教会/貴族)から保証された。つまりクロジェは一般的な小作人とはまったく違う身分制度で、どちらかというと宮廷内教会内使用人の延長に有ったと云えよう。云ってみればクロジェは、契約社員ではなく正社員だったのだ。
多くの場合、クロジェは家族単位だった。一定のクオリティを維持し、分業による業務の安定化を図るには、幼児期からの教育が必要である。作業の中に阿吽の呼吸が生まれるには、長い時間が必要だ。そのために世襲制で技術が伝承されていた。ちなみにこうした世襲制は現在でも普通にフランスの農家では保持されており、子供たちは幼児期から親の手伝いをすることで、その技術を継承していく。
したがってクロジェ農家は、そう簡単に増えない。それゆえにオーナーである教会/貴族とクロジェの間は、強い信頼関係/雇用関係で結びついたのである。
クロジェ農家が、大規模農園を任された場合、彼らは自分たち家族以外に日雇い農民を使用した。臨時雇いへの支払いは、すべて畑の所有者である修道院/貴族が負担するのだが、具体的な支払作業はクロジェが代行して行った。何人の日雇い農民を雇用するか・いつ雇用するか、すべてクロジェが決定した。
こうした雇用主からの大幅な決定権移譲が、葡萄畑に従事している農民のプライドと技術力の維持に強く繋がっていたことは間違いない。
・・このクロジェと教会/貴族たちの信頼関係を抜本から破壊したのがパリ革命である。革命政府は僧と貴族を片っ端にギロチンにかけると、彼らが所有していた畑を競売した。そのために多くのクロジェ農家は雲散してしまった。
さて。クロジェ農家が雇用した日雇いの農夫たちだが。彼らはマリエと呼ばれていた。マールは鋤のことである。「鋤を使う者」という意味だ。マリエの大半は、近在の農家だった。彼らは自分の畑を耕すだけでは生活できない人々だった。なのでクロジェ農園に出稼ぎへ出ていたのだ。当初マリエとクロジェの関係は緩やかなものだった。それを大きく揺るがしたのは、中世ヨーロッパを覆う「黒死病・ペスト」の蔓延である。
長文だが自著「一時間でわかるイタリア半島2000年の歴史: パスタから見つめるイタリア半島」から引用する。
「1347年9月。地中海東端レバント地方であるコンスタンチノープルから、大量の交易物を載せたガレー船が、シチリア島・メッシーナへ入港しました。
このガレー船は、荷物と船員の一部を港で降ろした後、すぐさま何事もなく何時ものようにフランスへ出航した。
ところが、そのガレー船に乗っていた船乗りが、メッシーナの町で突然高熱に襲われて倒れたのです。太ももや首の付け根にあるリンパ線に球状のしこりができた。それが瞬く間に体中に広がると共に、内出血による青黒い斑点が全身にできた。そして意識不明に陥ると三日ほどで死んだのです。それはメッシーナの町の人々が、だれも見たことのない死に方でした。
しばらくすると、その船員の近くの人々が、家族や近所の人々に同じような症状が出始めた。同じように高熱に襲われ、体中に黒い斑点が出来て、数日で死んでしまう。これが瞬く間にメッシーナの町に蔓延したのです。そしてイタリア西海岸にある城塞都市にも、一年も経たないうちに、この奇病が蔓延してしまいました。
人々は、これを黒死病・ペストpestisと呼んだ。ラテン語の"伝染病"である。
前述ガレー船は、メッシーナを出航したあと、ジェノヴァを通過後、終着点フランスのマルセーユで、絨毯・香辛料などの荷物を全て降ろしました。そのためペスト患者は数日を俟たず。ジェノヴァ、マルセーユにも現れた。荷物はそのまま当時最大の交易都市だったリヨンに送られたので、リヨンでも、すぐさまペストは始まりました。こうしてほぼ2年ほどで、ペストは全ヨーロッパを覆い尽してしまったのです。
この最初の発症の時。死者は2500万人だったと云われています。つまり全ヨーロッパ人の、ほぼ1/3がペストによって死んでしまったのです。
まさに国家存続の危機に、ヨーロッパの国は陥ったのです。・・国の破滅は何とか逃れても、経済崩壊は逃れられません。イタリアとフランス、ドイツ、イギリスは、短期間で完全に機能不全へ陥ってしまったのです。」
続けて引用する。
「Maurice Hugh Keenは、その著書の中で「黒死病は領主社会を崩壊させ小作農と労働者という2つの社会階級を生み出したという点で下層階級の社会に一つの変革をもたらした。」と書いています。
働く者の激減が社会構造そのものを変えてしまった。
全ヨーロッパの人口8000万人のうち、1/3の人々が、ほぼ2年ほどで死んでしまったわけですから、それが社会に与えた影響は計り知れないものでした。とくに甚大な影響をうけたのは農業でした。集約的労働力を必要とする農作は深刻な人手不足に陥り、畑の維持は不可能になりました。当時のヨーロッパの国々は農本位型です。その国の礎が崩壊の危機に陥ったのです。」
ペストは多くのクロジエ農家を破壊した。次々と櫛の歯が抜けるように父母/子らが死んだ・・家族による農園の維持が不可能になったのだ。同時に周辺零細農家の人々も死んだ。それでも畑は守らなければならない。
生き残ったクロジェ農家は、行き場を失って流浪した農民を無条件に雇用するようになった。それと共に教会/貴族は、耕す者を失ってしまった畑を、こうした流浪の農民たちに無償/あるいは極めて安価で貸し出しすようになった。労働力は人口の激減で、徹底的な売り手市場に替わったのだ。
実はクロジェ制を維持するには、最低でも2ヘクタール以上の作付け面積が必要なのだ。それより小さい畑だと、教会/貴族は、年毎の生産バラツキを呑みこんで一定報酬を支払うことが不可能になってしまう。それなので、それより小さい畑については、折半小作人としてでも働きたいという流浪の農民たちに貸し出されたのである。もちろん、そんな小さな農場ではとても生活していけない。それなので彼らは兼業としてクロジェ農家へも働きに出た。
彼らが新しいマリエになったのだ。