本所新古細工#04/隅田か墨田か
家康の治水政策、江戸湊の干拓で出来上がった江戸に、荒川の支流が導かれた。しかし江戸時代を通して、その川総てを表す名称は定まらなかった。かみから云うと、荒川・千住川・浅草川・宮戸川・大川・隅田川・三又川と幾つも名前があった。その川下に棲む僕らは、吾妻橋から下流を「大川」と呼んでいたことは前述した。
上古から記されている「すみだ川」は、いまの隅田川ではない。
奈良時代に書かれた「太政官符」では"住田川"と表記されている。平安末期に書かれた「今昔物語」では角田川だ。鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」では「隅田川」と表記されている。しかしいずれも表記は違うが「訓読み」は"すみだ川"である。"すみだ"は"すみ・た"端っこの地"という意味である。江東区の"江の東"と同じだ。
この川に「隅田」の字を充てられるのが一般化したのは江戸時代からである。
鳥居清種の「隅田川坂東名所」西向庵春帳の「隅田河鏡池伝」に"隅田"の字が見られる。
また錦絵の中でも、昇亭北寿の「東都隅田川真洌崎之風景」歌川広重の「東都名所隅田川渡場之図」溪斎英泉の「江戸八景隅田川の落雁」など、この頃には"隅田川"という名称が一般化していたと言えるだろう。
よ~するに、川向うは「大川」とよび、御朱引内では「隅田川」と言ってた・・と乱暴に括ってもいいかもしれないね。
西国から攻めてきた田舎もン薩長・貧乏公家製明治政府は"江戸"を「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつで、唐突に"東京"という名前に挿げ替えちまうんだが、そのとき紆余曲折ありながら15区に分けて"川向う"を「深川区」と「本所区」の2区にした。これを大東亜戦争に負けたのち、向島区と本所区南部区域を合わせて「墨田区」とした。その呼び名が、そのまま現在に残っている、というわけだ。
ところがだね。連合軍に敗北した時の政権を司る施政者は、これを「隅田区」としなかった。不様な話だね。なぜ「隅田」にしなかったのか?
当用漢字の中「隅」の訓読みの中に「すみ」がなかったからだ。
当用漢字は、GHQに阿って文部省が日本人の使用する漢字を1850字に制限した法整備である。往時の官吏がでっち上げた「当用漢字表」のまえがきには「法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で使用する漢字の範囲を示したもの」とある。なんとまあ!命令されればマッカーサーの靴でも舐めますという卑屈な法律である。
これに準じて「すみだ区」は「隅田区」ではなく「墨田区」とされた・・という経緯である。
・・ちなみに「文京区」だが、当初は「春日区」という名称が検討されていた。しかしこれも当用漢字外で却下。「港区」も「愛宕区」は却下。「北区」も当初は「飛鳥区」が検討されていたが、これも棄却された。伝統と文化を背負うべきである地名が、GHQへの阿りで踏みにじられた靴跡・・それが、これらの名称にくっきりと残っている、と云えよう。
忘れちゃだめだよ。官吏のおためごかしは、何時でも自己保身に満ちている