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銀座幻散歩#04
四丁目と数寄屋橋交差点の間は、西側と東側にはっきりとした明暗が有る。
東側は寂しい。それでもいくつか拾ってみると・・先ずに目に付くのは銀座教会。ジュリアス・ソーパーによるメソジスト系の教会だ。ここは戦前から英語学校を経営していた。さすがに戦時中は閉鎖されていたが、終戦後はほどなく再開している。礼拝のほうは戦時中も休むことなく行われてたとのこと。それと戦災に遭った泰明小学校は一時、この教会内で授業を行っていた。銀座の肝ともいえる地である。ぜひ訪ねてください。
晴海通りに安田財閥の富士銀行がある。ここは併合後みずほ銀行になったが、今でも同じ場所にある。少し下ったところに天賞堂が有る。
この辺りは、江戸時代には名主の名前が町名になっていた。この地図で云うところの五番街・並木通りを横に町名を並べてみる。
「鎗屋町」いまの銀座三丁目4番/四丁目4番あたり。
この辺りは由緒正しくて、家康と共に江戸お討ち入りに供した御用鎗師が屋敷地として拝領したところだ。もちろん日比谷入り江が埋められた後だよ。明治の御代には鼈甲細工師が多く住んでいたという。
「弥左衛門町」いまの銀座四丁目2・3番
名主弥左衛門が名主だった。最初は八重洲河岸(現行の千代田区丸の内一・二丁目)にあったんだけど、この地が開拓されたのち1628(寛永5)年にここへ移転。ちなみに北村透谷は出生地で彼は此処から泰明小学校(山下町)へ通っておりました。
そのまま晴海通りを渡ると
「鎗屋町」いまの銀座五~七丁目あたり
名主はも御用鋳物師長谷川豊後の拝領地。銀座西五・六丁目、銀座五~七丁目に編入となり消滅。現行の銀座
「滝山町」いまの銀座六丁目6・7番あたり
名主は開創町名主滝山藤吉
でも、寛永の切絵図には「竹山町」とある。承応・明暦の切絵図では「竹屋町」。江戸期には絵師狩野知信と信之、能楽師金剛又兵衛が住んでいたという。
「惣十郎町」いまの銀座七丁目5・6番
名主は内山惣十郎。屋根職人が多く住んでいたという。この地図には無いけど、金春通りにあった「きゅうべる」は戦前の文人の溜り場だった。そのうち荷風を中心にして「きゅうべる」のことを書いてみたいな。
さて。晴海通り西側を見る。
通り沿いに近藤書店がある。僕の若いころまではあった。イエナがここの上に移ってからは足蹴く通った。アカシアのうえに和光が有る。四丁目のビルがGHQに接収されてからは此処で営業していた。
そのまま並木通りを入っていくと開店したばかりの三笠会館がある。谷善之丞が奈良県吉野村から上京し「氷水屋 三笠」を開店したところから始まった店だ。
そのまま進んで五番街と四番街に挟まれた路地にバー・ルパンがある。添付した写真は、写真家の林忠彦が撮った太宰治。トリミングされているが横に坂口安吾がいたという。
外堀沿いに日動画廊が有る。
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