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コリョサラム#01/アゼルバイジャン・バクーにて#01

前職の頃、ある大きなプロジェクトのためのSPCでコリョサラムGoryeo saramの方とご一緒した。カシャガン油田に絡む案件だった。
・・ここでは「姜さん」と呼ぼう。舞台はアゼルバイジャンのホテルのラウンジである。
姜さんは30歳半ばだろうか。グーブキン大学Gubkin Russian State University of Oil and Gas卒だとのこと。
「なぜ、金融の道にいったの?どちらかというと、そのまま技術者の道でしょう?」と僕が軽い気持ちで聞くと、彼が言った、
「父は鉱夫だったんです。その願いで行ったんですが、途中で気が変わりまして」と笑った「卒業後しばらくして転属を熱く希望しまして金融の道へ進みました」
「それは、すごい!すごい勇気だね。ただ現場や技術を完全把握している金融マンは稀有だから、工業系それも石油化石系の大学卒というのは猛烈な強みになるね」
「はい♪おっしゃる通りです。ただ。やはり民族的なハンディを織り込むと、なにかに特化したほうが得策だなっ思いまして」
「民族的なハンディ?」僕が聞くと姜さんが言った。
「はい。我が家はコリョサラムGoryeo saramなんです」

その時まで僕はコリョサラムなる民族を知らなかった。姜さんに対しても、中央アジア出身だろうと勝手に思い込んでいたんだ。本来なら「姜」という名前で気が付くべきだったのに。中華系の発音でjiāngさんだと勝手に決めつけていた。違った。kangさんだったのだ。

「コリョサラム?」僕は思わず聞いてしまった。
「あ・ご存じありませんか?日本とも繋がる話なんですが・・」彼は笑いながら言った。
どうやら、コリョサラムなる民族を知られていないことに、姜さんは慣れていたようだ。
「1937年に、スターリンによって中央アジアに強制移住させられた朝鮮民族です。17万人ほど居りました」
「中央アジアにですか?ヴォルガ地方にいたドイツ人や、クリミアにいたタタール人やチェチェン人のことは知っていましたが」
僕がそう言うと「おや、東欧の動乱はご存じでも極東での粛清はご存じなかった・・ですか?」と姜さんは皮肉を込めていった。
言われた瞬間、あ・日本に原因が有るんだな・・と思った。
しかし‥知らないものは知らない。教えを乞うつもりで聞き直した。
「1937年というと・・満州事変の後ですよね?既に満州国は成立していた」
「はい。九.一八事変ですね。日本の方は満州事変と仰る。あの侵攻で日本は満州全土を半年で制圧しました。そうですよね?」
姜さんは僕の事前知識をそれとなく探った。
「そうです。実は、瀋陽に九一八事変博物館というのが有るんです。何年か前に行ってきました」
「おお、それは素晴らしい。いかがでした?」
「なかなか立派な博物館でした。遺品はあまりなくて、写真の展示ばかりが中心の博物館でした。経緯の詳細が大量に展示されていました」
「・・そうですか。機会あれば私も行ってみたいです。私自身はまだ、祖先の生きた場所を訪ねたことはないんです。その地を訪ねた方とお話しするのは楽しい。・・たとえあの地で行われた朝鮮民族への迫害をご存じない方でも」

ブレスト後の短い間の歓談だった。姜さんとの話はここで終わった。
ホテルの部屋に戻った僕はすぐに会社へ電話した。
僕の秘書は嫁さんの命令で男性だ。某社で社長付きとして長く働いていた人だ。縁あって僕の所で働いてくれていた、
彼が電話に出るなり聞いた。「コリョサラムって知ってるか?」
「・・いえ、知りません」
「スペルはGoryeo saramだ。簡単にレポートまとめてfaxしてくれ」
「承知しました」
そう言いながら、自分でもwebをサーフィンしてみた。まだWTC911の前の話だ。あまり大した記事は見つからなかった。

満州事変から半年で日本が満州を完全制圧したことに、スターリンは強い不安を抱いた。その走狗として現地にいた朝鮮民族を疑った。・・彼らによる裏工作/スパイ工作が行われたのではないか?と。とすれば、満州だけではなく、日本海沿岸のソビエト連邦領土「沿海県」も危ないと・・スターリンは思ったのだ。ヴォルガ地方へ移住しロシア人となったドイツ人を疑ったようにだ。
当時の沿海県の朝鮮人人口は10万6193人という記録が残っている。うちソビエト連邦国籍になっていたのは3万人余りで、あとは外国人として扱われていた。実はバイカル湖以東は「極東共和国」として一応の自治権を保有していた。その時代に李氏朝鮮崩壊の動乱を逃れて朝鮮半島南部の農民たちが渡り住んでいたのだ。李氏朝鮮は1897年に大韓帝国と名前を変え、1920年には日本へ併合されている。「極東共和国」がソビエト連邦に併合されるのは1922年だから、ほぼ同時期である。ちなみにロマノフ王朝が倒れてソビエト連邦となったのは1917年である。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました