黒海の記憶#32/フラウィオス・アッリアノスの黒海周航記
いつものようにローマ期における黒海とその周辺について旅しようとすると、なにしろ一次資料が少ないですよ。それも分断された者ばかり。結局のところヘロドトスのものばかりを頼ることになるのだが、いま僕らが佇もうとしている最初の千年紀の初めの「黒海」から、ヘロドトスは何百年も離れているのだ。だからヘロドトスはポントスが去った後の地中海を知らない。ローマによる蹂躙以降を知らない。
唯一の希望は『アレクサンドロス大王東征記』を記したフラウィオス・アッリアノスだ。
その話をしたい。
アッリアノスはビテュニアのニコメディアで生まれたビテュニアンである。ニコメディアNicomediaはアナトリア中央にあった古代都市だ。286年にローマ帝国東部の実質的な首都となっている。ヒスパーニア・バエティカで属州総督を務めている。そののち執政官を務め、属州カッパドキアに総督を長く務めた。「執政官級の高官にして哲学者」との著名だった。この時代、ここまで出世した唯一のギリシア人である。
彼の残した紀行で『黒海周航記Periplus Pontus Euxini』というのがある。
ヒスパーニア・バエティ/カッパドキアの提督を務めていた折、彼は常に地元支配者の面従腹背に晒されていた。その獅子身中の虫の間を歩くこの紀行文は、トラヤヌス帝の後継者ハドリアヌスに出された報告書の一部である。
https://www.amazon.co.jp/Arrian-Periplus-Ponti-Euxini-Greek/dp/1853996610/ref=sr_1_4?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1FWR5SL4V02V2&keywords=Periplus+Ponti+Euxini&qid=1663672669&s=english-books&sprefix=periplus+ponti+euxini%2Cenglish-books%2C189&sr=1-4
背景を考えてみると・・コーカサスからの侵略者が黒海東岸と北側を荒らしていた時である。実はローマに帰属したはずの地元支配者たちが裏で手を回していたケースも多かった。
まさに黒海周辺は奉らわぬ民の地だったのだ。
『黒海周航記Periplus Pontus Euxini』は、トラペズスに到着するところから始まっている。トラペズスはアナトリア東北部にあった。ローマ帝国の境界に位置する。これより先は「ローマの支配下」とは言えなかった。
ビテュニアンのアッリアノスにとって、トラペズスは幼児期から慣れ親しんだ空気の街だった・・はずである。しかし彼が見たトラペズスは、あまりにも非ローマ的だった。ローマへの畏敬はおざなりで、いつでも掌を返しそうな施政者ばかりの街だった。街の中央に供えられた祭壇も雑で、ローマを讃えるはずの碑文は稚拙なうえに誤字だらけだった。アッリアノスはすぐさまハドリアヌス帝に新しい祭壇の製作を要請し、ローマから運ばせる手配をしている。何よりも彼が呆れたのは、海を指さしている建っているドリアヌス帝の像である。あまりにも帝に似ていない。彼はそのことを周航記の中で嘆いている。
アッリアノスは、トラベズスを出ると海岸沿いを東へと航海した。 そこで黒海らしい「黒い嵐」に遭遇した。
引用する。
「突然、雲が現れて我々の東方に立ち込め、激しい嵐を呼び、それは我々の航路に対して完全に向かい風となった。迂回する間もなく、瞬く間に大きな海のうねりが生じ、見るも恐ろしい光景となり、我々には大洪水のごとく大波が押し寄せた。 状況は実に悲劇的なものであった。というのも、我々が排水を行うと同時に、同じ早さで水が流れ込んできたからである。
船は大揺れに見舞われたが、アッリアノスは無傷で生き延びた。それはローマにとっては僥倖であった。なぜならば、彼はちょうどその頃、黒海南岸の大部分の地域を支配する総督に任命されたばかりだったからである。なお、彼の管轄区域には、ローマ帝国の属州に組み込まれたミトリダテス王の旧領も含まれていた。
彼の海での幸運は、何かの力に護られたような一生へとつながった。」
嵐は二日続いた。
命からがらでアッリアノスは黒海北側アプサルスに着いた。
アプサルスは伝説の英雄アプシュルトスのための巡礼地である。此処はコーカサス奥地に向けたローマの重要な支配地だった。交易の出入りが此処を中心に動いていたのだ。それもあってローマからは五大隊が派遣・駐屯していた。
ローマにとって、アカンプシス川近辺とそれを辿って入り込んでいくコーカサスは東方においけるローマ支配が漸う確立している最果ての地である。
それでも、アプサルスのある河口から遡り東方へ進むと、ローマの威信にひれ伏すものはいない。
周辺海岸沿いの町はどこも敵対的で、とても安全に訪ねることはできなかった。
アッリアノスは、かつてミレトスの植民地で「小ローマ」ともいえる町ディオスクリアスに移動した。
たしかに"利"で繋がった人々である。それがある限り、彼らが牙を剝くことはない。しかしローマが実質的な支配力を持っているとは思えない・・と彼は思った。
彼らは交易が不調になると、貢納を支払うという約束を反故にし、代わりに沿岸の都市を略奪する輩だった。そして交易が再開すると平気で市へ帰ってくる。あまりの鉄面皮ぶりにアッリアノスはハドリアヌス帝に「我々は彼らに決められたとおりに貢納するよう義務づけます。さもなければ彼らを殲滅いたします」と書き送っている。
『黒海周航記Periplus Pontus Euxini』を読んでいると、これがただの紀行文でないことがひしひしと伝わっている。アッリアノスは同地の提督に指名された。しかしビテュニアン出自である彼は、黒海周辺の民・アナトリアの民・バルカン半島の民が、本質的に反ローマ的であることは骨の髄まで解っていた。だからこそ自分の足で歩き、自分自身で統治の道を模索しようとしたのである。
しかし彼が実体験できる黒海は、この時期まだまだローマの埒外だった。それでも貴重な実録として『黒海周航記Periplus Pontus Euxini』な一次資料だといえよう。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました