オデッサ考古学博物館01
https://www.youtube.com/watch?v=fojavoz7gWo
前々職の頃、会社の指示でオデッサの近くにある製パン工場を訪ねた。
ソ連から自立したばかりの頃だ。
その工場は、ずいぶん昔に弊社が生産工程の一部を請け負ったものだった。同国が非共産化したことに相まって、その工場の再整備組み直しが企画され、僕が派遣されたのだ。しかし訪ねてみると、工場内は共産圏特有の体質がそのまま残っていて、猛烈にやり難かった。仕事一つ一つに、わざわざチェックと確認が入る。なぜ此処を補修するのか?の説明を要求される。しまいには整備してやろう!という気さえ無くさせるようなやり方だった。それでも、やったけどね。僕が手掛けた仕事で、もっとも「人的」に手古摺った仕事だった。
その上、衣食住が最悪で寝泊りはすべてが工場内だった。それと休みの日にどこかに出かけようとすると、訳もなく監視の目が走る。おい!ここはもう共産国じゃないだろ!とむかっ腹が立つことが何度もあった。
それでも、所内の責任者に嫌な顔をされながらも街まで/オデッサまで出かけたことがある。その時は街で一泊した。本社に連絡して「ホテルを予約してくれ」と頼むと、本社は慌てて送迎のドライバーとホテルを予約してくれた。事件にでも遭ったら大変だということだろう。ホテルはロンドンスカヤLondonskaya Hotelというところだった。
「一体全体、どこに行くんだ」本社の担当が言った。
「オデッサ考古学博物館に行きたいんだ」僕が言うと、彼が呻吟した。
「またいつもの癖か・・頼むから事故は避けろよ。この間のメコン川ほどじゃないが、ウクライナはまだ治安が安定していないからな。湾岸部には行くなよ」
「わかった」
「一体全体、そのオデッサ考古学博物館って、何処に有るんだ?」
「湾岸部」僕が言うと、担当はひときわ大きい声で呻吟した。
結局のところ、ホテルと博物館の間もドライバーがついた。ドライバーは助手席に乗った男もいて厳めしい感じだった。後で聞いたら、市の警察官の副業だったことが分かった。道理でな‥と思った。
オデッサ考古学博物館Одеський археологічний музей НАН України(Lanzheronivs'ka St, 4, Odesa, Odesa Oblast,Ukraine 65026)は、スタンブルスキー公園Stambulʹsʹkyy Parkのすぐ横で、隣にグリーク公園Greek Parkがある。間にある階段が『ポチョムキンの階段』だ。
これだけはどうしても見たくて、前に停まってもらって一人で歩いた。
映画「戦艦ポチョムキン」は何度見ただろうか?彼の「イワン雷帝」はスターリンの指示で作られた作品だったが、お気に召られず連作されないまま終わった。しかし何度見ても鳥肌が立つ名作だった。
クルマに戻ったあと、ドライバーの二人は、なぜ此処へ寄ったのか不思議そうな顔をしていたので、Eizenshteinという名前を言った。通じなかった。知らなかったのか僕の発音がヘンテコリンなのかは・・判らなかった。それでPotyomkinの名前も出したが、これは「oh、Потёмкин!」と通じたが、階段とその名前は一致しなかったようだ。
グリゴリー・ポチョムキンGrigory Potemkinは、エカテリーナ2世の男妾だった。性豪だったという。エカテリーナは彼をサモジェルジェツ・モエイ・ドゥシーсамодержец моей души/私の心の皇帝と呼ぶほど溺愛していた。そして乞われるまま出身地であるノヴォロシアを彼に与えた。ノヴォロシアは黒海北岸の広大な地域である。今日のウクライナ南部、ドニプロペトロウシク/ザポロージャ/オデッサになる。此処は元々オスマン帝国の地だったが、キュチュク・カイナルジ条約(1774年)によってロシアのものになっていたからだ。その地をエカテリーナはポチョムキンに与えた。媚び諂いの人だったポチョムキンは、エカテリーナの名をつけた「エカテリノスラフ」という町を早速作った。今の現ドニプロである。その阿諛追従を喜んだエカテリーナは、愛人の素晴らしい仕事を見るために「視察する」と言い出した。ポチョムキンは大慌てした。1787年である。ポチョムキンは、エカテリーナの御行する道すべてに、クリミアにある農作物の大半を引っこ抜いて豊穣の地であることを偽装した。エテカリーナは殊のほか満足して王宮に戻った。おかげでクリミア半島はこのあと数年間、深刻な飢餓へ落ち込んだ。この逸話は「ポチョムキンの村」Potemkin Villageと呼ばれている。