ナダールと19世紀パリ#25/印象派の擁護者という評判
50才になったナダールは、動乱の中で息をひそめていた。
プロイセン軍と戦うために従軍したナダールだが、コミューンには名を連ねてはいない。実は・・過酷な軍務のために病を得て寝込んでいたのである。このときもまた・・ナダールは幸運な男だった。病が、彼を凄惨な殺し合いから遠ざけていたのだ。
それにしても。あれほどの熱血漢である。病を圧してまでもティエールの暴虐に立ち向かわなかったの何故だろう・・彼は熱烈な共和主義者であり、何よりも自由を尊ぶ人だった。もしかすると、コミューンの唱える社会主義的な統制に、ナダールは違和感を抱いていたのかもしれない。僕はそう思ってしまう。それが人民による人民のための政治体制ではなく、人民の中から生き馬の目を抜くように成り上がった者による情け容赦ない力ずくの支配・・でしかないことに、鼻の効くナダールは気づいていたのかもしれない。
1872年、ようやく平常に戻り始めたパリで、ナダールは弱り切った身体に鞭打ちながら妻エルネスティンと息子ポールの三人で写真館を再開した。カプチーヌ通りにあった派手な写真館である。しかし顧客はさっぱりだった。それもあってナダールは写真館を縮小引っ越しせざるを得なくなった。
その引っ越し騒動の中、カプチーヌ通りの写真館で展覧会を開きたいという話が舞い込んだ。幾らかでも金が貰えるなら何でもいい。ナダールは快諾した。それが最初に開かれた印象派の展覧会である。
1874年4月15日のことだ。展覧会には30名画家が参加した。期間は1か月。午前10時から夕方の6時までと夜8時から10時までの開催だった。展覧会の正式名称は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」だった。まだ「印象派」という括りが存在しなかったのだ。
ここでも幸運の女神はナダールに微笑む。
彼は意図せず新しい芸術の波「印象派の擁護者」と呼ばれるようになるのだ。「さすがナダール!先見の明があると人々は褒めそやした。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました