夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩3-6/クリュニー#06
https://www.youtube.com/watch?v=wlICtIsSYsE
4つの基柱が並ぶ場所Narthexは柵で囲まれていて中に入ることは出来ない。アビー広場からPl. de l'Abbaye見るだけになる。10名ほどの観光客を連れたガイドが基柱を見ながら説明をしていた。
「こちらは専任ガイドですよぉ」と嫁さんが小さい声で言った。
Brasserie du Nordを背にして左側にLa Grande Exposition D'Été(Rue du 11 Août 1944, 71250 Cluny)というエキシビジョンセンターがある。並んでGrand Gala de Cluny(19 Rue municipale, 71250 Cluny)が有ってその前(マルシェ通りRue de Marche)を行くとT字路にぶつかった。MAGASIN& BIOという(化粧品屋?)が正面にあった。右に曲がると右側にPortes d’Honneurという門がある。そこを入るとアバティアル広場 Pl.de l'Abbatialeで、Musée d'art et d'archéologie(Parc Abbatial, 71250 Cluny)はそこにあった。
一階と地下一階で、破壊され持ち出された様々なクリュニー修道院の破片が展示されている。
「ここは1866年に作られた。焼失していく修道院の遺品をクリュニーの図書館に集めたのが最初だ。大幅な改修はグッケンハイム財団が入るようになってから行われた。いま僕らが見てるのは1988年になって完成したものだ」
「図書館だったの?
「ん。だから貴重な古書類や図画も大量に保存されている」
「見れるの?」
「ん。一部だがね」
一階と地下は、修道院を飾っていた彫刻の断片が並んでいた。一階には中世の絵画が並んでいた。
「すべて石造りなのね。石の文化なのね」
「ん。シャンパニューでも見た石の文化だ。それはボジョレーからディジョンまで続く山脈が石灰岩質だからだ。シャンパニューもそうだった。それが・・つまり切り出せば建築材として使える素材が有ったから出来上がった文化だ。もっと北は、漆喰と木材と煉瓦の文化だ。
ほら、この間見たコンブランシャンの採石場を思い出してごらん。あれと同じ石灰岩地質がここらあたりも続いているだよ。・・その石灰岩地質が医師の家を作り出し、石の装飾品を作り、スパイシーなワインを生み出しているんだ」
博物館の地下一階に降りると大きな空間に、幾つもの柱の断片、レリーフ、使徒の顔、織り交ぜられたメダリオンが展示されていた。
「パンフを見ると、34個の石灰岩に掘り込まれたロゼット/ライオン/雄羊/人魚/怪物、そして座った棘射手が展示されているそうだ」
「あんな大きな修道院の残骸が、こんな狭い所に集まっているのね。9/10が焼失したということを実感するわ」
「だな。これだけでも保存する資金を提供したグッケンハイム財団とコナントの努力は称讃すべきだ」
「クリュニー修道院ってどのくらいの広さだったの?」
「コナントが40年かけて沢山の絵図面を起こしている。複数の家屋の集合体だからな。正確な大きさは判らない。でも今のクリュニーの町は23.71km2ある。2./3として見ても4km四方くらいだな」
「そんなに大きかった!」
「普通三世代に分けられるんだ。915~927年頃がクリュニー第一世代。王から授けられた原野に建立されたのが最初だ」
「何処に有ったの?」
「さっき行った修道院回廊の北側近くだったらしい。完全に解体されているので、じつは何もわかってない。史料の中にあるだけだ。これが70年ほどかけて少しずつだが拡充しはじめてクリュニー第二世代になる。960年以降だ。当時はサン ピエール ル ヴューとも呼ばれていた。この頃からはっきりとベルディクト会の影響が出てきた。周辺地に強い影響力を持ち始めた時だ。多くの修道士がボーヌ/ディジョンのもりに派遣されて次から次に開墾がはじめられた時期だ。トゥルニュ修道院やロマンモティエ修道院が出来上がっていく」
「最成長期だったのね」
「ん。ブルゴーニュは王国時代が終わり公国時代に入っていた。東からの蛮族の信仰に対抗して、あんていした産業が確立し始めていた時期だ。それに乗ってクリュニー修道院も成長したんだよ。最大のキーパーソンは聖オディロ(962年頃– 1049年)という人だった。彼は、クリュニー5番目のベネディクト会系修道院長で、約54年間も修道院に君臨している。彼の努力によって、クリュニーは西ヨーロッパで最も重要な修道院になったんだ。、彼こそまさに『神の平和Paix de Dieu』を推進した人だ」
「神の平和?初めて聞いたけど‥パクス・アメリカーナはいつもあなたから聞いてるけど」
「1000年前後と云うと、統一国家と云っても絶対的な権力をもって自国内を睥睨するところまでは言ってなかったんだよ。ブルゴーニュ公国とフランス王との確執みたいなものは、ヨーロッパ全土で起きていたんだ。Fehdeというんだがな、自領を守り拡大化を目指す戦争だ。・・もちろん巻き込まれるのは農民たちだ。一所懸命に守り育てた畑にある日突然兵隊たちが集まって殺し合いを始めちまうわけだからな。後始末は酷いもんだった。当然ね教会も収入が激減する。聖オディロは領主を訪ね、欲だけの戦争を諫めて歩いたんだ。そして従わない領主に対しては教会からの破門をチラつかせた。教会から破門されれば、閻魔様と一緒で、死んだら天国行っていいのか地獄行っていいのか分からなくなってしまう。だから領主たちは嫌々聖オディロの還元を聞き入れたんだ。これが『神の平和Paix de Dieu』だ。」
「すごい人なのね。聖オディロって」
「ん。ちなみにだな、彼の推進した諫言は、最終的にラテラノ教会会議で教会法として公布されたんだ」
柴田三千雄氏が自著『フランス史10講』でこう書いている。
「10世紀末に王権の弱い南フランスにはじまり、北にも広がった。領主(貴族)たちの戦闘・暴力行為を制限するため、司教が中心となって教会会議を開き、特定の場所、特定の社会層(聖職者、農民、商人、巡礼者など)を戦闘から保護するよう領主に宣誓を求めたもので、拒否した領主には破門などの制裁をおこなった。11世紀はじめには、特定期間の戦闘行為の停止を求める「神の休戦」運動に発展したが、この運動の独自性は、全住民による誓約団体がつくられたことあった。修道院改革運動が領主からの宗教機関の独立を目的としたのにたいして、この運動は、教会が魂の問題だけでなく、王権や城主権力にかわって公共秩序の維持にかかわりはじめた点で、きわめて大きな意味を持っている。」
「これが"破門"という方法で、貴族たちをしたがわせる嚆矢だったわけだ。以降これが常用化され、教会は隠然たる力を持ち始めるんだよ」
聖オディロ死後。彼の敷いた路線の上でクリュニー修道院はさらに強大化した。1088年から1130年にかけて修道院はさらに大きくなった。これが第三世代だ。長さ187 メートルにまで造成され、当時キリスト教世界最大の教会になった。・・でもね」
「・・でも?」
「残っているのは、破片と一部の残骸化した建物になったんだ。その破片がこの博物館に集められている。でもわずか数個なんだよ。守ろうとしなければ・・文化も文明も幻のように消えてしまう。その証左がこれだ」
見学の後博物館を出て、そのままアヴリル通りPl. de l'Abbatialeを歩いた。焦点がほとんどない古い民家の間を抜ける小道だった。
そろそろ夕闇が地数いてくる時間になっていた。
アヴリル通りを真っ直ぐ歩くと10分ほど歩くとホテルへ戻れた。