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小説日本国憲法 3-6/金融封鎖・1946年2月16日

1946年2月16日、土曜日夕方。ラジオ放送によって「金融緊急措置令」発令がされた。
渋沢は、こう言った。
「皆サン、政府ハ何故コウシタ徹底シタ、見ヤウニ依ツテハ乱暴ナ政策ヲトラナケレバナラナイノデセ ウカ、ソレハ一口ニ謂ヘバ悪性インフレーショントイフ、国民トシテ実ニ始末ノ悪イ、重イ重イ生命ニ モカカワルヤウナ病気ヲナオス為ノ己ムヲ得ナイ方法ナノデス。(昭和財政史 終戦から講和まで 第12巻金融」
渋沢はインフレーションを強調した。

その内容は以下のものだった。 
・2月17日以降、銀行などの預金、郵便貯金などは支払停止とし封鎖する。 ・流通している日銀券(1日円)は、3月2日限りで失効する。 
・新円を発行して、2月25日から3月7日までに旧円と交換(比率は1対1)する。 
・新円交換限度額は、個人一人について100円まで、残りの旧円は預金として封鎖する。
そして各項として、以下のことが放送された。

・封鎖預金からの払い戻し限度額(新円)は、個人については世帯主月額300円、世帯員一人につき100円とする。 
・事業主については、給与の支払一人500円(新円)、その他は封鎖円による支払いとする。必要な交通費、通信費は新円で支払う。
・したがって3月2日の失効期日前に、現在保持している旧円はすべて金融機関に預け入ること。そして預金されたものはすべて封鎖され、3月3日午前零時から財産調査を行い、それを財産税算定の基礎とする。
そして翌日2月17日・日曜日に「臨時財産調査令」が公布された。


しかし・・この、寝耳に水な「金融封鎖/新円切替」放送だが、その意味はどの程度国民に伝わっただろうか?おそらく「旧札は3月2日以後、紙くずになる。」「その前に銀行へ預け入れなくてはならない」そして預けると「銀行からはお金が少ししか下ろせなくなる。」の三点ではないか。 
放送は「インフレ防止」を連呼していた。 たしかにインフレは暴走していた。 
1945年8月15日以降、日本銀行の民間貸出は急激に増大していた。それに臨時軍事費の支払が覆いかぶさった。日本銀行の貸出額は8月15日271億円だったものが12月末には378億円に膨れ上がっていた。大きな理由は、巷の銀行が付き合いのある大企業に対して、つなぎ資金の融資を乱発したためである。
しかし大蔵省は当初こうした急激なインフレについて楽観視していた。

当時の大蔵省大臣、津島壽一は以下のように発言している。
「通貨膨張の主たる事由、大なる軍事費の支出を主体とせる政府歳出の増大と軍需生産資金の著増とでありまするに対し、戦争終結に伴ひ、将来此の種資金の放出は自ら阻止せらるるに至るのであります。此の点よりすれば却つて所謂デフレーションの傾向を馴致するものとも謂ひ得る。」

しかし、内部省官は猛烈な危機感を抱いていた。1945年10月29日に大蔵省が出した「財政再建ニ関スル件」というレポートを見ても判る。彼らは潜在する怪獣インフレーションが、戦後四ヶ月目を経て一挙に顕在化しようとしていることを実感していたのだ。ただひたすら増加する貸出と預金引出が、そろそろ日銀の体力以上のものになっていたからだ。このままでは取付から金融恐慌という事態へ進む。事態はのっぴきならないところまで進行する。なんとしてもデフォルトは避けなければならない。そう思っていた。

「戦争責任は、国民が等しく背負わなければならない。」それしか国家破綻を防ぐ方法は無い。・・という判断だ。しかし決断するのは大蔵省ではない。政府だ。
ちなみに、このインフレーション抑制のためにという渋沢の説明について、前書『昭和財政史 終戦から講和まで』の第12巻100ページで、著者・中村隆英東大教授が以下のように書いている。
「これ以降の政府の説明もこの趣旨で貫かれている。こうして、大蔵当局の一時インフレ の高進を抑え、時をかせごうというひかえ目な判断に基づく政策効果の見通しはかくされたまま、公式 には徹底的なインフレ対策としての面のみが強調され、一般もそのような政策としてこれを理解することになったのである。そこにこの政策がのちに多くの批判をあびなければならなくなった最大の理由が あったといえよう」

当時のことについて、渋沢敬三も大蔵省に内部資料として、以下のような口述を残している。『元大蔵大臣渋沢敬三氏講述(全) : 戦後財政史資料 : 昭和二十六年五月八日』
「(終戦後の極度のインフレは)いつ、いかなる形で、いかなる速度で出てくるか、はっきりとつかんでいなかった。むしろ多少楽になるんじゃないかという考え方を持っていたと白状せざるをえない。あの頃の考え方は少し甘かった。」 
「財産税をとって、日本の財政をきれいにし、政府補償はある程度、はっきりしたものだけ払って、一度すっきりした形にしてみたいということだけが私の考え方だった。あの時代はほかのことはあまり考えられない時代だった。」 
このとき質問者だった福田赳夫に渋沢敬三はこう聞いている。
福田「(金融緊急措置令は)インフレを抑制させるためですか?」
渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と答えている。 
福田「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」
渋沢「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

渋沢が大蔵省総裁を請けたのは1945年10月9日、GHQが出した「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を受けた東久邇宮稔彦首相が、これでは自分の手による政権維持は不可能と判断し総理大臣を辞任。幣原喜重郎に代わったためである。幣原は日本銀行総裁だった渋沢敬三へ大蔵大臣就任を依頼した。渋沢は受けるしかなかった。金融が判る者が今こそ必要なとき・・だったのからだ。

渋沢はすぐさま大鉈を振った。1945年12月に物価安定措置後、抜本的な金融建て直しのための体系化された総合政策を策定。翌年1946年2月の「金融緊急措置」につながる政策を組み立てていった。そして2月16日の「金融緊急措置令」所謂預金封鎖を公布。2月17日に「臨時財産調査令」の公布に至る。 
では、この措置は如何ほど効果が有ったか。
2月18日時点で日銀券発行残高は614億円だった。それが3月12日には152億円になっている。これによって各金融機関の資金繰りは解消され、日銀借入金を返済できるようになったのだが、インフレ抑制力として考えると効果あまり無かった。財政赤字は継続したままだった。そのため預金封鎖が解除されるには2年の時を要してしまった。封鎖が解かれたのは1948年7月である。



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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました