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東京島嶼まぼろし散歩#29/伊豆諸島09

八丈島一周道路をしばらく走ってクルマは横路地へ入った。
道路は舗装されていたから生活につかわれているんだろうな・・とおもった。
小さな細い道をゆっくりと走っていくと曲がり角の脇に二つの看板があった。
「八丈島湯浜遺跡」とい「湯浜遺跡について」という看板だ。
僕らはクルマを降りた。
いまは発掘現場は何も残っていない。
「これだけなんです」運転手が言った。
僕は沈黙したままでいた。
「もう少し手前で降りて、林道をゆくと倉橋遺跡というのもあります。行かれますか?Uターンしますよ」
「おねがいします。」
TAXIはシーサイドゴルフクラブのところでUターンした。
確かに50mほど先に左へ曲がる痛み切った舗装の道があった。
「道は一本です。私はクルマの番してますから、お二人でおねがいします。今は廃墟になったホテルがあります。その傍らに倉橋遺跡がありますが、こちらはかんばんもなにもないです。」
嫁さんと僕はクルマを降りて林道に入った。少し入ると朽ちかけた「八丈島温泉ホテル」という白いビルがあった。
「これね」嫁さんが恐る恐る言った。「なんか真夏の怖い夢みたい」
周囲を一周してみたが確かに遺跡らしきものは何も見当たらなかった。僕らは一周しただけでクルマまで戻った。
「いかがでした?」運転手が言った。
「なにもないですね」
「ホテルが怖かったです」と嫁さんが言った。
「ご期待にそえましたかね?八丈は古い歴史の島なんですが、旧いものは殆ど残っていないんですよ。そんな余裕もなかったんだと思います」
クルマはもう一度「八丈島一周道路」へ戻った。
「では八丈庁舎へむかいます。」運転手さんが言った。「今来た道を戻って八丈町にあります」
「おねがいします」
20分くらい走ったろうか。ホテルから来た道を進まずに左に曲がり、しばらくして八丈中央道路とある道を右へ曲がった。
「もう少し先です」
すぐに開けた庁舎が左側に見えた。
「東京都八丈支庁」と「東京都教育庁八丈出張所」という名前が掘られた茶色の石板が有った。クルマは駐車場に停まった。
「私はここでお待ちしてますね」運転手が言った。
庁舎に入るとすぐに「八丈島民俗資料館」という黒い看板があった。そのよこに「企画展示室」というのもあった。
「ここ?」嫁さんが言った。「これ?」
入館料は100円だった。
展示物は流民関連のものが多かった。
展示物を見ながら朝の続きを話した。
「サイパンが落ちて昭和20年代に入ると、関東圏は空海とも米軍が制覇した。そのために小笠原も伊豆諸島もポツンポツンと日本軍が居ただけになった。伊豆諸島/小笠原諸島を担当していたのは第12方面軍だ。独立混成第65旅団が大島に駐屯していた」
「でも戦闘はなかった?」
「大きなものは何もなかった。制空権・制海権を握った米軍は徹底的な兵糧作戦へ移った。民間船を含めて関東域を航海する日本籍船舶を悉く沈めたんだ。もともと自給自足は難しかった伊豆諸島/小笠原諸島は、あっという間に食糧危機に陥った。」
展示物に大きな土器が有った。
真ん中に置かれた八丈島のジオラマの前に立った。
「・・ほんとに、まったくもって!としか言いようがないんだよ」
「え、なにが?ここが??」と嫁さんが言った。
「ちがう。日本軍の話さ。東京の島嶼部が食糧危機に陥った話さ。日本は、兵站が出来ないときに自給自足で維持できる兵隊数を誰もシュミレートいないまま戦争を遂行したんだ。これだけ兵隊がいれば島は守れるだろうという程度の論理で、日本は兵を現地に送り込んだんだ。あとは精神論だ。・・精神論はアタマの悪い奴らを使うときのツールであって、システムの本貫に置くようなタグイじゃない。

ヒトは飯を食うし糞もする。靴も穿くし服も着る。日本は南洋諸島で無数の自国兵を餓死させた経験を全く生かしていない。漫然とそのままを繰り返したんだよ。日本国の戦争を遂行するためのロジックが・・時代錯誤の19世紀のままだったんだよ。どんな最新兵器を開発したとしてもオランウータンにはつかえないんだ」
「オランウータンって・・でも明治政府は富国強兵が大きなテーマだったんでしょ?」
「ん。しかし、日本にはサムライはいても、近代的なシステムで機能する軍隊はなかった。近代軍の在り方についてはフランスとドイツのモノをコピーをするしかなかったんだ。それらの国へ行って、教科書で学ぶしかなかった。戦争論も一昔前の話ばかり、紙上で学ぶだけの空論ばかりだった。実践的戦闘理論は幕末のまま・・その、未熟のまま肥大化したんだ」
「未熟のまま肥大化・・」
「・・前々職ドイツの企業にいたころ、町で出会ったドイツの老人が酒の席で言ってたことがある。ドイツの政治家・役人は、ベルリンを襲った連合軍と戦った。正邪ではない。我が子・我が妻・父母を守るために戦った。手がもげ目を失った人が沢山出た。あのとき自国が戦場になった国の政治家・役人く須らくそうだった。戦後ドイツを背負って生きた政治家・役人は自分の血と肉と汗で、戦争とは何かを知った人々だった・・と。
僕は赤面したよ。陛下のご聖断で日本は無血開城へ進めた。本土が焦土になることは避けられた。しかしそれは・・戦いで血を流したことのない政治家・役人・軍人をそのまま温存することになっちまったんだ。だから戦後、松本蒸治みたいな"無条件降伏をしたのは日本軍だ。日本政府は無条件なんぞとは言ってない"なんてことを平気で言い出す輩が出てくるんだ。
沢山の兵士を餓死させた大本営の参謀たちは極悪だ。しかしそれ以前に、そんなことも思いつかない程度の軍隊にしちまった国家経営ビジョンを強く問うべきだろう。これを僕はいまの日本の指導者・官吏にも問いたい」
「なんかムズかしい話になっちゃったわ」
「あぁ~すいません。人の上に立つべき指導者の無策無能にはどうしても憤りを感じてしまう。指導者は天命だ。我欲の発露ではない・・すいません。」
東京都八丈支庁を出た。TAXIに着くとそれに乗った。
「いかがでした?」運転手が言った。
「はい。綺麗にまとまっていました。ありがとうございます」
「そうですか。よかったです。それでは黄八丈めゆ工房に行く前にお昼にしますか?」
「おねがいします。八丈町には島寿司のおいしいところがあると聞いたんですが」
「はい♪銀八さんですね。いま電話してみましょう。あそこは地元でも有名だから入れないといけない。」
「すいませんね。いろいろお願いして」
ここでもTAXIは外で持ってくれた。「どうですか?ご一緒に」とお誘いしたが笑って固辞された。
寿司は・・美味しかった。昔っぽい僕が好きな寿司屋だった。
「でも、待ってられると・・少し慌てちゃうわね」嫁さんが
言った。
食事を済ませて店を出ると「いかがでした?」と聞かれた。
嫁さんが「おいしかったです!」と応えた。お世辞で「おいしい」とは言わない嫁さんなんで、まんぞくしてくれたんだな・・と思った。
「黄八丈染元の『黄八丈めゆ工房』へ向かいます。またまた今通った道を戻ります。中乃郷の方です。」
クルマはまた八丈島一周道路を走り始めた。同じ道を走り慣れたせいか。なんとなく距離感覚がつかめた。湯浜遺跡へ曲がる小道を抜けてもう少し先に有った。白い看板に「黄八丈ゆめ工房」と墨書してあった。平屋の民家のように佇まいだった。

「予約してありますから、私が入口までご案内します」運転手さんが言った。
ここで小一時間ほど、製造工場から販売展示まで見学させていただいた。黄八丈がなぜ堅牢なのかも褪せないのかの話は知識としては知っていたが現物を見て触ると感慨深かった。
「あなたの着物、大島紬よね。そう言えばあれも島で織られた反物なのよね」嫁さんが言った。
「黄八丈は江戸時代、年貢として納められたんだよ。将軍家はそれを献上物として使ったんだ。丈夫で長持ちする反物は如何にも家康らしい献上物だったんだろうな」
「なるほどねえ。こう見ると・・20万円30万円くらいかしらね。お義母さんが持っていた反物よりお手軽かも」
「欲しいか? 」
「だめ、私、ほんとに着物に合わないから。娘たちはあんなに似合うのに・・ほんと不公平だわ。あなたのせいよ」
「おい・そんなこと人のせいにするない。帰るぞ」
「いや!帰らない。何か買ってく!」
「ご髄に」
と言っても大したものも買わずにTAXIへ戻った。
「いかがでした?」運転手さんが言った。
「すごい手間暇かけて織り上げていくんですね。感心しました」嫁さんが言った。
「奥さんもどうですか‽ひとつ」
嫁さんは笑うだけで返事をしになかった。
「さて・・ホテルへ戻りましよう。今度は違う道をいきます。このまま真っすぐに一周道路を進みます。海は望めないですが・・」
「あ・だったら藍ヶ江港に寄り道していただいていいですか?
島から南の海を見たいです」
「了解しました。藍ヶ江港はすぐそこです」
ホテルに戻ったのは16:00ごろだった。結局6時間、僕らに付き合っていただいた。ホテルの入口まで送ってくれると、一旦クルマを降りて深々と頭を下げてくれた。
「ありがとうございました。駆け足のような周遊でしたが、八丈は満足いただけましたか? 明日お帰りですか? 」
「はい。行きは東京から空路を乗り継いできたので、明日は船で戻ります」
「ここのホテルは送迎をしてくれるんでしたね。それでは、今回はこれでお別れと云うことで。ぜひまた八丈にいらしたときは、お声かけください。どちらへでもご案内いたします」そう言うと、笑顔のまま運転手さんは行った。

「お疲れでしょ?わりと長かったから」嫁さんが言った。
「ん。夕飯はホテルですまそう」
「そうね。そうしよ。そのまえにお風呂へ入りたいわ。ここ、温泉はないのよね」
「ん。ない」
「食事の後、町に出よう。覗いてみたいBarがある」
「おや?フレンチの次はBar??すっかり東京ね」
「ん。東京だからな」
店の名前はBarRという。オーセンティクではないしNBAにも加盟していない。でもBarらしさは備えていた。
僕はスコッチのブレンデッドにした。嫁さんはカクテル。

飲みながら、戦争末期の伊豆/小笠原の話を続けた。
「え~と、どこまでいったっ・・ああ、伊豆/小笠原諸島、戦争末期だ。米軍に制空権/制海権に握られた島は孤立化した。人が飢えるにはそれほどの時間はいらない。
当時の記録はあまり残っていない。『大島町史通史編・三/戦争体験の証言・食糧不足と疎開」とか少量だが部分的な証言は残っている。供給が立たれた大島は、昭和19年10月上旬、各村長、軍司令官等による要人懇談協議会が開いた。自給自足は不可能であり、食料供給の見通りしがなくなった時を想定し「島内ニ於テ米1日28石ヲ消費シアル状況(から)7500石ノ移入ヲ必要トシアル状況ナルヲ以テ特ニ現地自活ノ方策ヲ考究セザルベカラス主食ノ不足分ハ、方策ヲ考慮スル」婦女子を疎開させ人口を減らす方策を策定したとある」
「でも制海権はアメリカが握っているんでしょ?疎開の船は?」
「わかっている。分かっていながら疎開させたんだ」
「・・そんな」
「そんな中で『小笠原事件』が起きた」
「なにそれ?}
「昭和20年に父島で日本軍が、アメリカ軍の捕虜8名を処刑して5名を食べてしまったとされている事件だ」
「何!それ!!初めて聞いたわ」カウンターの向こうにいた女性バーテンダーの子と嫁さんが同時に言った。
僕が却ってびっくりした。
「あ・すいません。勝手に話をまた聞きして」彼女が言った。
「いいのよ。また聞きしてあげて」嫁さんが言った。「観客が多いと主人はすごい乗るから」
ひとを噺家みたいに言ってる。。
僕は笑いながら続けた。
「敗戦後、米兵の捕虜収容所へ捕虜救出に海兵隊が入ったんだ。9月2日だ。その海兵隊から告発した事件だ。加害者は末吉実郎海軍大尉。彼が捕虜の独りを軍医に解剖させて内臓を食べたという話だ。そして立花陸軍少将。そしというひとで、て的場陸軍少佐だ。彼らの命令で殺された兵士が二人に食人されたという話だ」
「本当の話なの?」

https://www.archives.gov/files/iwg/japanese-war-crimes/select-documents.pdf

「証言は日本人からも出ている。堀江芳孝陸軍少佐という人で、彼は立花陸軍少将と硫黄島から八丈島に移転してきた人で立花は偏執的で病的だったと証言している。堀江によると、立花たちが食人したのは堀江が英語の教師として仕用していた捕虜で、彼が不在中に立花の命令で連れ去られ殺され食べられたと証言した。父島でも同じようなことが起きている。特根通信隊司令だった吉井静雄海軍大佐が食人したという。・・もちろん反論はある。日弁連の会長になった土屋公献弁護士だ。彼は当時父島に配属されており、この食べられたと言われるボーン中尉の処刑に立ち会っていて、そんな事実はなかったと断言しているんだ。」
「どっちがほんとなの?」
「わからない。全員被告は死刑にされているからな。
でも逆位にうと、こんな話が実しやかに伝わるほど、八丈島の食糧不足は悲惨だったんだよ。
山田 平右エ門さんという方がいるんだが、彼も自著『八丈島の戦史』で「身近な彼等の最後の模様や、惨めだった疎開状況を、一部であるが、ありのままに伝えいくこと」と書いている。食糧危機は悲惨だったことは間違いない」


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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました