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東京島嶼まぼろし散歩#26/伊豆諸島06

八丈島は『八丈島 リゾート・シーピロス』を取った。送迎はホテルにお願いした。
https://seapiross.co.jp/
クルマに乘ると嫁さんが溜息を付くように言った。
「ようやくホテルのある島に辿り着いたのね。長かったわぁ~」
部屋は洋室のツインルームだった。決して立派な内装ではないが、嫁さんはご満悦だった。
ベッドにごろりとなって「やっぱりベッドがいいわぁ」と言っていた。
「ところで、ここは夕食付きにしたの? }
「いや、しなかった。ホテルの案内に、少し行くと食事できる処が色々あると書いてあったから、敢えて朝食のみにした。
「ふうん。どんなところ?」
「近くにChez Quexというフレンチが有ったから、そこ予約しておいた。」

「フレンチ!!郷土料理じゃなくてフレンチ!!」
「ん」
「Excellentes.」
食事は19時からキープしたので、少しロビーのバーで休んだ。
「八丈島は、開発が意外に早かった」
「どうして?」
「黄八丈のおかげさ。産業が他の島より確立していたんだ。アホウドリの話をした時に言ったろ。彼も八丈のひとだ」
「観光は早かったの?」
「ん~、と云ってもなぁ。江戸時代は一般人も含めて自由な往来は禁止されていたしな。島の交易は三井が握ってた。
それをようやく一歩進めたのが渋沢栄一だ。東京湾汽船は彼が中心になって明治24年に成立した。以前から伊豆諸島に航路を持っていた4つの会社・東京平野汽船組合/第二房州汽船/三浦汽船/内国通運を合併して作られたんだ。・・しかし最初は御蔵島への航路だった」
「大島じゃないの?」
「ん。御蔵島は柘植の木の産地だ。これを使って櫛を作る。江戸時代から確立していた航路だよ。次いで明治31年に下田~新島航路が始まってこれが三宅島を通るようになった。これに目をつけたのが逓信省で、郵便船として使用されたんだ」
「大島は?」
「相陽汽船という会社がある。ここが不定期だが伊東~大島を繋いでいた。東京湾汽船がここを買い取ったのが明治39年で、同社の大島航路はこれからだ。
この航路を使って、最初に書かれた大島についての紀行文が『伊豆大島紀行』井上円了だ。明治42年だ。同じく里見弴が『大島ゆき』『大島の女』を書いた。幸田露伴も『昔日の大島』『大島ものがたり』を書いている」
「里見弴って、あなたのお気に入りでしょ?あとの二人はしらない」
「彼が22歳の時に書いた文章だ。二つとも回覧雑誌『麦』に掲載された」

大島航路を東京湾汽船が受け持ったことで航路確保が安定すると逓信省が見たんだろうな。東京府が八丈島を除く六島の航路を確立せよと同社に命令した」
「国がそんな命令をするの?」
「ん。出来る。どう考えても赤字すれすれビジネスだからな。しかし定期航路は必須だ。東京湾汽船は多大な保護を請けてこれを承諾したんだろうな。そして三宅島寄港八丈島定期航路開通が大正元年だ。これでようやく東京湾汽船によって伊豆諸島は全航路が確立したんだよ。」
「45年かかったの?」
「そうだ。それほど時代の流れから伊豆の島々は隔絶していたということだ。明治40年(1907)に東京府知事からの通達で郵便船が定期的に通うより前に大島を訪ねた有識者はアーネスト・サトウくらいのものかな。彼は『伊豆大島』(明治14年)に書いている。彼は登山家だったからな、三原山を歩いてるんだ」

「アーネスト・サトウってイギリスの外交官でしょ?サトウという名前が佐藤じゃないと、あなたが言ってたから憶えているわ」
「おお、よく憶えているねSir Ernest Mason Satowだ。スラブ系の性だ。珍しい名前だな。彼は来日中に膨大な和書のコレクションをしてるんだが、大英博物館に寄贈された。これらの本をベースにして『日本古印刷史』という著書がある」

「ところでその東京湾汽船って、いまもあるの?東海汽船じゃないの?」
「東京湾汽船が東海汽船に改名したんだ。昭和18年だ」
「戦時中に?」
「うん。東海汽船の史料にも戦時中の話は少ない。特殊病院船や貨物の移送に船は利用されていた」
「へぇ~でも・・八丈島に来て、大島の話を色々するなんて面白いわね」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました