ナダールと19世紀パリ#17/オスマニザシオン
ナポレオン3世/ジョルジュ・オスマンが行った19世紀のパリ大改造はオスマニザシオンtravaux haussmanniens」と呼ばれている。
これはとんでもない大改造だった。街は自然発生的に膨れ上がって形成されるものだ。たとえ人災/天災で破壊されたとしても、これを抜本的に組み替えることが出来た施政者は古今東西誰もいない。もし近しい例を探すなら、大火事で消失したNYCの14丁目以降・・位なものだろう。しかしそれも未だ碌に整備されていなかった地区だからこそ可能だったわけで、14丁目以前では不可能だった。
ジョルジュ・オスマンは、上下水/主幹道路などのインフラを含め、街へ入り込む駅の整備/港湾の整備、行政施設の集約、公園の配置、街路樹、ガス灯に至るまで全てが有機的に繋がる「健康的な人体としての都市」を考え、細部までディテールを作り込み之を実行した。
ちなみに数字だけを追うと・・16年間在職中に彼が作った新街路はおよそ20km。下水道は実質匝離600km。ブローニュの森が約900ha、ヴァンセンヌの森850ha。そしてモンソ一、モンスーリ、ピュット・ショモンの各公園など小公園は総面積1800haである。家屋は約20,000軒を取り壊し、新家屋を34,000建てた。総額約25億フラン(当時)だったという。
これがただ一人の男の脳内から始まり現実なものとして構築されたことに僕は驚嘆する。痛烈な意志と迷いない実行力。カリスマ性がこうした未曽有の大事業を成功させたのであろう。
では・・ナポレオン3世はどうだったろうか。大いに満足だったに違いない。
ナポレオン3世は、1855年にパリで国際博覧会を開くつもりでいた。世界中から人々を集め彼らから称賛の声を浴びたかった。なので主幹整備は絶対に完成していなければならなかった。ナポレオン3世は厳しくこれを命令した。オスマンはすぐさま工事にかかった。法律は改正され、議会の承認なく整備はオスマンの思うままに出来るようになっていた。彼は主幹道路を拡張し整備し、そして大型の宿泊設備ホテルを幾つも建てた。
その資金として、ナポレオン3世は国庫から5000万フランが供出している。しかし足りなかった。オスマンは考えた。そして整備した道路沿いの土地を販売するという案をナポレオン3世に提出した。ナポレオン3世はすぐさま同意。投資銀行クレディ・モビリエのペレール兄弟を呼びつけた。このオファー/新道路沿いの不動産開発と権利獲得にエミールとアイザックの兄弟は2400万フランを支払った。これがオスマンの都市開発のモデルとなった。オスマンは新道路に面した土地を事前に売り、新築の住宅ビルを事前に売り、その調達した資金を旧所有者たちに支払うという方法で、強引に開発を進めたのである。
当然、新築で立てられた建物への住居費は高額で、旧地権者たちに買えないものばかりだった。旧地権者は自分で買える程度の物件へ・・パリの外へ散らばった。・・このあたりは今の東京に良く似ている。親が亡くなると子は相続税が払えないので生まれ育った地を捨てて地代の安い地域へ引っ越しする。
こうして半ば強引に整備されたパリで1855年、万国博覧会は開催された。まだまだパリは建設途中だった。それでも外国から客は変貌していくパリに目を瞠った。人々は「オスマンのパリ」に驚き「技術と芸術が統合した街パリ」に酔いしれたのだ。
気を良くしたナポレオン3世は1867年に再度万国博覧会を開催している。
いま、僕らが見ているパリの風景の多くは、このオスマニザシオンの成果である。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました