星と風と海流の民#08/ポンペイと呼ばれるようになったポナペ
https://www.youtube.com/watch?v=tKn7JdJo2LU
ミクロネシア連邦が出来てから、ポナペはポンペイと呼ばれることが多くなった。連邦が定めた公式な表記が「Ponape」から「Pohnpei」へと変更されたからだ。ポナペという呼び名は、1919年に国際連盟から南洋群島の委任統治を請けた日本政府が付けた名前である。その前は「ジュラウ島(Jaluit)」と呼ばれていた。ドイツ統治時代だ。その前は、というとスペイン統治時代で、この時は「サン・アウグスティン島San Augustín」と呼ばれていた。
帝政ドイツは第一次世界大戦で太平洋の統治権を失った。英国に加担して帝政ドイツに宣戦布告した日本国は、そのご褒美としてミクロネシアを渡されたのが1914年である。実は、その時点では日本国内に南進論は台頭していなかった。石油が産業資源として確立していなかったからだ。日本国がそれを求めて欲の爪を伸ばすのは第二次世界大戦頃からだ。
国際連盟から南洋群島の委任統治を請けた日本国は、1922年に南洋庁を設置した。南洋庁はこの島をドイツ時代の名前では呼ばないつもりでいた。それで住民が何と呼んでいるかを調査した。それがPONAPEである。
南洋庁は、これを漢字表記にしなかった。彼らは南洋諸島の島々を、カタカナで現地住民の呼ぶ名前を島名として採用したのである。
第二次敗戦後、ミクロネシアはアメリカ合衆国の統治下に移った。そしてそれが1979年のミクロネシア連邦へ繋がっていく。そのミクロネシア連邦が、より英語表記らしく島名をPohnpeiポンペイにしたわけである。
理由は、現地語でPohn「石あるい祭壇」pei「上にあるいは高い」という意味だとのことだ。意味は「高い祭壇のある場所」あるいは「石の上にある場所」とのこと。ナンマドール遺跡を意識した名前だ。きっとその意味で島の人々は、ここを呼んでいたに違いない。しかし・・いま聞いても彼らがこの島を呼ぶ発音は/ˈpɒnəˌpeɪ/としか聞こえない。/poʊnˈpeɪ/には聞こえない。
なので僕は、ここでは従前のとおり「ポナペ」と呼ぶことにしたい。
さて。ポナペの朝である。
赤道の朝は短い。朝日は真っすぐに立ち上がる。夜明けの白々とした空は、朝日が海上の見えた瞬間に昼間の明るさになる。その眩しさに撃たれて僕も夜明けとともに目覚めた。簡易なベッドの横に水差しが有った。それをグラスに注いで、部屋の前のテラスへ出た。
手にしていたのは中島敦の新潮文庫の「光と風と夢」だった。
僕は従軍の時、いつも10~20冊程度の文庫本を持ち歩いていた。この時に、軍制のショルダーバッグに押し込んでいた本の一つがこれだった。
「一八九〇年十二月×日
五時起床。美しい鳩色の明方。それが徐々に明るい金色に変ろうとしている。遥か北方、森と街との彼方に、鏡のような海が光る。但し、環礁の外は相変らず怒濤の飛沫が白く立っているらしい。耳をすませば、確かに其の音が地鳴のように聞えて来る。
六時少し前朝食。オレンジ一箇。卵二箇。喰べながらヴェランダの下を見るともなく見ていると、直ぐ下の畑の玉蜀黍が二三本、いやに揺れている。おやと思って見ている中に、一本の茎が倒れたと思うと、葉の茂みの中に、すうっと隠れて了った。直ぐに降りて行って畑に入ると、仔豚が二匹慌てて逃出した。
豚の悪戯には全く弱る。欧羅巴の豚のような、文明のために去勢されて了ったものとは、全然違う。実に野性的で活力的で逞しく、美しいとさえ言っていいかも知れぬ。私は今迄豚は泳げぬものと思っていたが、どうして、南洋の豚は立派に泳ぐ。大きな黒牝豚が五百碼も泳いだのを、私は確かに見た。彼等は怜悧で、ココナットの実を日向に乾かして割る術をも心得ている。獰猛なのになると、時に仔羊を襲って喰殺したりする。ファニイの近頃は、毎日豚の取締りに忙殺されているらしい。」
僕は本を読みながら左手のMIL-W-3818(軍支給の腕時計)を見た。六時を少し回っていた。
トシさんのロッジは、さすがに子豚はいなかった。それでも鶏だろうか、喧しい鳴き声は聞こえていた。
三十五歳のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンが、85年前に見た風景と同じものが僕の前にあった。