ナダールと19世紀パリ#22
1870年秋。ナポレオン三世失墜/共和政臨時政府へ政権が移行したのちもプロイセンとの戦争は続いた。臨時政府が、プロイセン/ビスマルクが提示した休戦協定の条件であるアルザス・ロレーヌ地方の割譲と賠償金50億フランを呑まなかったからだ。パリはプロイセン軍に包囲されたまま冬を越した。
小競り合い以外の戦闘は起きなかった。しかしパリは飢えた。完全に兵糧攻めに追い込まれたのだ。
・・他のフランス諸都市は、パリと臨時政府に対して傍観的だった。前世記パリから火の手が上がったフランス革命が如何ほどフランス全土に混乱と破壊をもたらしたか・・鮮々と憶えていたからだろう。動乱はパリだけで終わらせてほしい。誰が指導者になってもかまわない・・というのが本音だったのかもしれない。
それもあってナダールの気球に乗ってパリから逃れたガンベッタがロワール軍団を編成し南からプロイセン軍に戦いを挑んだりもしたが、戦局は好転しなかった。
ではナダールは。外相ガンベッタを気球に乗せ市外から逃がしたナダールは・・どうだったか?ナダールは水を得た魚のように活々とした。ナポレオン嫌い共和主義信奉の彼は、喜び勇んで共和政臨時政府に協力し、得意の気球と写真術を駆使した偵察部隊を組成したのである。
ナダールは自ら操縦士となって大空へ昇りプロイセン軍の軍勢配置の写真を撮った。そして次々に寄稿文を作り上げ、これらを様々な新聞/雑誌に発表した。往年の論客/新聞記者ここにあり!という勢いだった。
同時に気球を利用した海外郵便組織を作ると、自身の紀行文とともに沢山の郵便物を、プロイセン/ビスマルク軍の包囲網の外へ届けたのである。まったく恐ろしいほどの発想力だ。ナダールは航空郵便の先駆者でもあるのだ。
・・ある意味、この動乱はナダールにとって僥倖だったともいえる。趣味を逸脱した「気球飛ばし」はナダールを経済的にも精神的にも袋小路へ追いこんでいたからだ。臨時政府の軍服を纏い嬉々と空へ飛ぶナダールを見て、妻エルネスティンは人心地ついたかもしれない。空にいれば戦傷することはない・・と。
しかし、街は飢えた。耐えられる限界を超えた。プロイセン/ビスマルクはパリへ攻め込むわけではなくドッシリと構え、街を自己崩壊まで追い込んだ。
1871年2月、兵糧攻めのパリでフランス総選挙が行われた。平和を望んだ市民は、プロイセン/ビスマルクの要求をすべて呑み休戦協定すべきであると主張したオルレアン派のアドルフ・ティエールを選んだ。王党派が政権を握ったのだ。
ボルドーに拠点を置くティエールは、こうした事態に陥ったのは全てナポレオン三世のせいであると主張し、翌月3月1日彼の廃位を決定している。プロイセン/ビスマルクはこれを受けて3月19日ナポレオン三世の幽閉を解き、彼はそのまま英国へ亡命した。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました