見出し画像

小説特殊慰安施設協会#40/餓えの冬と戦うサムズ大佐

1945年の冬。日本は最悪の冬を迎えていた。
無理な戦線維持のための資材・物資の確保は、日本経済を徹底的に破壊した。分かっていたことだ。分かっていたことだが、終戦と共に蓋を開けてみると・・まったくもって、これでよく戦争が続けられたなと思うほど凄惨な状態に日本は陥っていたのである。

「一億玉砕」という錦の御旗は、実はこうなってくれば・そうなるしかないという状況を、キレイに言っただけのこと・・だった。あのまま突き進めば、たとえ話でも何でもなく、日本民族は滅ぶしかないところまで、国家は日本民族を追い詰めていたのである。指導者たちの判断は、時に無辜の人々を無残な死へ追いやる。まさにその典型的事例ともいえる事態に日本は陥込んでいたのだ。

たしかに開戦に至るまで様々な経緯は有る。いわゆる「枢機卿」側と括られた日独伊は、全て20世紀に入って急成長した国々である。これらの国々は、先達と同じ方法で国家を大きくしようとした。そのため既存利権者/連合国側と徹底的に正対するしかなかった。そして開戦に至り、既存利権者/連合国側らに徹底的に叩き潰されたのである。新興国・枢機卿側/日独伊すべてが同じ経緯を辿ったことを鑑みると、如何に既存利権者/連合国側が新興勢力の台頭を嫌い徹底的な総力戦を仕掛けたかがわかる。三国の伸びようとする芽は蹂躙された。その結果として戦禍に疲弊し、三国はその年の冬、空前の「餓え」という「懲罰」を受けたのである。 
日本国の場合、これに深刻な冷害と、立て続けの台風の猛威が重なった。そのため終戦の年は、まさに日本国全体が飢えた年になってしまった。

飢餓は・・とくに都市部で食糧物資の極端な不足は、人々の間に伝染病を蔓延させていた。その飢えと伝染病に敢然と立ち向かったのが全述のPH&W局クロフォード・サムズ大佐だった。

本来ならば公衆衛生局の主たる任務は"米国兵士とその家族"の健康管理で、現地人のそれは副次的項目にしか過ぎないのだが、サムズ大佐は自分が持てる時間の大半を、日本人の健康管理に割いた。その精力的な活動ぶりにGHQ内でクレームを入れる者はなく、彼は独走した。当時44才。セントルイス出身である。若いころから医師を志し、苦学の末、高校を出て、そのまま陸軍に入隊し、猛勉強の末に陸軍軍医になった男である。だれよりも赤貧の苦しみを身を持って知っている男だった。そして誰よりも赤貧が人の希望を打ち砕くことを知っている男だった。「小さなひとかけらのパンから、明日への希望を見出す者もいる。・・もちろん見出さない者もいる。私は、その希望を見出す一握りの人のために生きる。」それがサムズ大佐の心だった。

最初の赴任先パナマで、彼はマラリアと戦った。そのとき、彼は軍医は兵士だけを見つめているだけでは駄目なことを悟った。治癒した兵士は街へ戻り再度罹患して医務局へ戻ってくる。我々が立ち向かうべきは、兵士だけではなく"街"だ。彼はそう確信していた。

このパナマ時代の活躍が注目されたサムズは、大戦開戦と共にすぐさま北アフリカと中東へ回された。彼が同地で戦ったのはチフスだった。彼はパナマ時代の経験を生かし、防疫と治療を米兵だけではなく、現地人、そして敵の兵士にまで行った。伝染病の根絶は、まさに徹底的な根絶の実施のみでしか為し得ないからだ。 彼はこの時代、全米チフス委員会から功労賞を授かっている。

そのヨーロッパ戦線から太平洋へ移動すると、サムズ大佐はとてつもない大きな壁にぶち当たった。それは、この戦線ではジュネーブ協定が機能していないことだった。ヨーロッパ戦線では、傷つくもの・病に倒れた者は、敵味方なく双方が看病と治癒にあたるのが慣例だった。太平洋戦争は、この原則が機能していない戦場だ。日本軍はジュネーブ協定を無視していたのだ。負傷した敵兵を捕らえれば殺す。それが普通だった。また同時に自軍兵士についても捕虜になるくらいなら自決せよ、と指令していた。それが日本軍だった。その、まったくヨーロッパ戦線と違う異様な民との戦いを経験した上で、サムズ大佐は8月30日の夜明け前に、横浜港へ着いたのである。

最初の彼の事務所は横浜港の税関ビルだった。彼は此処に居を構えると、日本側の終戦連絡委員と共に市内の病院を巡回した。入院患者の状況を調べるためである。街は歩く者もなくゴーストタウンだった。サムズはそのときのことをセントルイスに暮している妻エルバに書いている。

『街は燃え尽きていました。ベルリンで見た景色より酷かったです。だれも道行く人はなく、空襲で全ての日本人が死に絶えたのか?と思うほどでした。通訳に連れられて行った大病院も同じでした。院内は閑散とし荒れきって、病室には誰もいませんでした。奥に入ると、三人の医師が震えながら部屋の隅に座っていました。訳を聞くと、患者はすべて米兵が殺しに来る前に逃がしたとのことでした。そして医薬品も強奪されないように全て持ち出したとのこと。私は驚嘆しました。私は通訳を通してその三人に聞きました。"ではなぜ、あなたたちは残っているのか"彼らは応えました。"我々は最後の抵抗を/大和魂を見せるためにここへ残った"しかしその声は恐怖に震えていました。
私は慄然としました。きっとこれと同じ情景を、日本人は被害者ではなく加害者として体験してきたんだろうと・・』

サムズは、北アフリカの砂漠で、悪鬼と化した兵士暴徒の惨戮のさまを嫌というほど見て来ていた。ジュネーブ協定が、なんとも脆い人の心・優しさであることも、彼は知りつくしていた。だからこそ、サムズはその震える三人の医師に、可能な限り穏やかな声で話しかけた。 
『私は彼らに言いました"我々は、あなたたちを奴隷にするためにきたわけではない。我々はあなたたちを、軍部の手から解放し民主化するためにやってきたのだ。"そして街の現況を尋ねました。病気・食糧はどうなっているのか?我々は先ず何をしたらよいのか?彼らは通訳の言葉を放心したように聞いていました。そして見る間に表情を変えていきました。私は今でも、その彼らの心の変化を忘れていません。』


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました