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星と風と海流の民#28/ラピタの地・バヌアツ国立博物館

https://www.youtube.com/watch?v=_c3MMMETpPU

バウアフィールド国際空港Aéroport International Bauerfieldからブリスベンに飛ぶフライトは午後一番だった。バヌアツ国立博物館Vanuatu National Museumは9時から開業だったので、朝一番に訪ねることとした。現地スタッフのヤンは、眠そうな顔をしながら8時にホテルのラウンジへやって来た。僕はチェックインを済ませて、ラウンジで朝食しながら彼を待っているところだった。
テーブルに就くと彼が言った。
「昨夜はマイクの話のおかげて酩酊したよ」
昨夜、島内を一周したあと、一度ホテルへ戻ってから、9時頃から再度街へ出た。出かけたのはBanyan Beach Bar&Cafe(7896+GG3,Port Vila,Vanuatu)というバーだった。

そこで、彼と食事しながら竜山文化の発展から夏王朝の成立の話を聞かれるままに。そのときに殷の甲骨文や周の金文のことへ触れたが、これらについて、彼がほとんど知らないことに却って驚いた。
「清朝末期、国子監祭酒(国立大学学長)に王懿栄と言う人がいた。彼は持病治療のために漢方薬を服用していた。それが竜骨である。竜骨は哺乳動物が化石化した骨で、地中から掘り出したものを珍重する。あるとき王懿栄はその骨に文字が書いてあることに気がついた。これが亀甲獣骨文字であり、時代は殷のものと確定したのは彼だった」そんな話だ。そして趙爾巽の『清史稿』についても話すと、彼は目を輝かせた。
「俺の一族は海上旧家だった」ヤンが言った。
「清代に沙船航運で財を為した一族だ。宗家の三姉妹ほどじゃないが、戦後の動乱に翻弄された一家だ。俺はその裔さ。清史はそれなりに学んだが、マイクの話は面白い」ヤンが続けて言った。
「清代は揚子江の海運が栄えた。その一派が君の祖先なんだろうな。崇明/海門/上海等を走る船は"沙船"と呼ばれたんだ。閩浙粤東の船は"鳥船"と呼ばれた。沙船は沙洲の多い海上を適していたので"沙船"と呼ばれた。鳥船は沙洲を避けて、もっと沖合を走ったそうだ」僕はバヌアツビールTusker Lagerを口にした。
「おおそうだ。沙船は、その吃水120cm程度で、積載量は200トンから400トンだった。最盛期には4000隻以上あったという」
「すごいな」僕が言うとヤンが笑った。
「一族の"ムカシは良かった話"のひとつさ」
そんな話で昨夜は泥酔したヤンが、今朝は眠そうな顔をしている。
「今日のドライバーは、昨日の夜に迎えに来た俺の部下だ。俺は助手席だ」
「ドライバーは?食事は?」
「部下はクルマで待ってる。俺は食事はパスする」

朝食の後、我々は昨日のようにエリク・ロードElluk Roadを北上した。ドライバーは赤毛の若い男で、言葉にはっきりとした英国訛りがあった。
そして、昨日は左折した三叉路を直進した。道はルー・ダートイズRue Dartoisというこの島で一番舗装された道に入ると右側にバヌアツ国立博物館Vanuatu National Museum(7838+WX7, Rue Dartois, Port Vila, vanuatu)が有った。僕は、博物館の前で降ろしてもらった。一人で観たかったからだ。

二日酔いのままなヤンが言った。
「いいのか?案内しなくて?ガイドを博物館の人間に頼むつもりだったんだが」
「いや、一人で浸りたい。二時間後に迎えに来てくれ」
「分かった。荷物はあずかったままでいいな?」
「頼む」
『虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物幷びに作り、吾もって復を観る』と言ったのは老子だった。道德經だ。心を広げるには、ひとりの方が良い。とくに幾つもの文化が織り交ざって集められた"博物館"と言うところでは、様々の気が雑然と交錯してるので、声が聞き取りにくいからた。
僕は何世代もかけて旅しながら伝わった「星と風と海流の民」の声を聴くために館内へ入った。

館内へ入ると、すぐに彩色された頭蓋骨が幾つか有った。青色に彩色されたもの、豚の牙だろうか頭に取り付けられたものがひときわ目立った。すべて本物の頭蓋骨を加工したものだった。儀式用の鐘にも頭蓋骨を塗して使用すると聞いていた。大きな3mほどもある人型の彫り物が並んでいた。バヌアツ特有な砂絵の写真やtama-tamaと呼ばれる織物。貝を細工した飾り物、仮面・被り物が展示されていた。
そして中央近くに、ほぼ完全版のラピタ模様の土器がガラスケースの中に置かれていた。1000年続くパプア人の遺物の中に、ポツリと置かれたようなラピタ人の忘れ物だ。

オーストロネシア語族のオセアニアへの拡散は通時的に繰り返された。ヒト類の拡散として捉えると、現生人類は西太平洋のうち海岸線に近いニューギニアやビスマルク諸島やソロモン諸島へ、約5万年前頃には到着している。そして彼らは次第に操船術を身に付け、さらに拡散範囲を東へとしている。そのハブがバヌアツだった。まさにバヌアツは、リモートオセアニア南部でヒトが居住した最初の島嶼群である。その意味でもバヌアツは太平洋におけるヒト拡散史における重要な群島だと言えよう。

オーストロネシア語族のうち海に生業を置く人々が、アジアの東海岸から南海岸にひろがりオセアニア全体に広がっていく過程には、ある意味先鞭となるヒト類の拡散が有ったと見るべきだろう。
この地域にひろがったオーストロネシア語族は、間違いなく「閩」とよばれた地区(今の福建州あたり)、そして台湾が起源だ。この『最初のオセアニア人(FRO)』と呼ばれる人々は、拡散すると共に分化し、地域ごとに特殊化した。マレー半島/インドネシア/パプアニューギニアに無数な言語がある理由はそのためである。
その拡散過程にラピタ人が折り重なったのは約3000年ほど前、彼らがサンタクルーズ諸島とバヌアツへ到達したというわけだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました