コリョサラム#04/アゼルバイジャンのバクーにて#04
会食が終わってホテルの部屋に戻ると、シンガポールからレポートが届いていた。
別添資料と合わせて50ページほどのレポートだった。僕はワイン片手にベランダへ出てこれを読んだ。
レポートは「スターリンの台頭」から始まっていた。いい切り口だな、と思った。
レーニンの死は1924年である。ソ連共産党はスターリンとトロツキーが拮抗した。トロツキーは世界革命論を説き革命の火ぶたを世界へ広げることを強く主張していた。それに対してスターリンは「まず自国から」を強く語り「一国社会主義論」を前面に押し出していた。この両者の対立は深刻な内抗争をもたらし社会主義体制そのものに崩壊の危機ところまでいっていた。
しかし内部組織の足固めを最も重要項目としていたスターリンは党内人事の部分で次第にトロツキーに対して優位に立って行った。そしてジノヴィエフ、ブハーリンと共闘を組むことによって最終的にトロツキーの締め出しに成功していった。
トロツキーが排除できればジノヴィエフはいらない。同時に、いちいちクチを挟み利権を欲しがる古参のボリシェヴィキもいらない。
スターリンは、レーニン死後の五年間で無慈悲に謀略と武力で粛清を繰り返し、完全にソ連を"我が物"にしたのである。その経緯を見ると、いかに"共産主義"なるものが独裁者を育む温床となりうるかを痛感するばかりだ。
そして1929年11月、スターリンはプラウダ誌に「医大に転嫁期の年」を発表。ソ連の工業化そしてコルホーズ/ソルホーズの建設によって国家としての事業効率の急進化を全面に押し出したのである。その影には、反対派だったブハーリンの粛清が忍んでいた。
スターリンはこの壮大な・・ある意味力ずくな事業の拡大化に、多くの労働者が必要なことを理解していた。彼が、同国内少数民族狩りと周辺国の侵攻併合に執着し、繰り返していった大きな理由は正にこの一点。「労働力の確保」である。
・・考えてみると・・結果論だが・・スターリンがトロツキーに勝利したことはソ連に大きな勝機を与えたと云えよう。理由は1929年10月24日「暗黒の木曜日」から始まる世界恐慌である。ソ連はその吹き荒む嵐の外に居て、着々と成長を繰り返したのだ。
そして1936年の所謂「スターリン憲法」によって"皇帝スターリンの国家・ソ連"は完成し、西欧諸国とは異質の"王朝"国家として成立したわけである。まさに第二次世界大戦前夜である。大恐慌は収斂することなく続いていた。
その回復からいち早くドイツ・イタリア・日本が立ち直ろうとしていた。既存の欧州各国植民地を蚕食することで身を守ろうとしたのだ。とくにナチス=ヒトラーが率いるドイツは急成長を遂げ、1938年3月にオーストリア併合、さらにチェコスロヴァキアのズデーテン地方も我が物にしていた。この時期、スターリンはヒトラーと秘密議定書を交わし「ポーランドの分割とバルト三国の併合」を取り決めている。
そして極東。日本国は傀儡国家である満州国を1933年に起こしている。続いて1937年より日中戦争へ突入した。日中戦争は、清国(中国)とモンゴル/ソ連との国境が不明瞭だったことを顕在化させた。申告にとってもモンゴル/ソ連にとっても、不毛な大地に惹かれる国境なんぞ明確にする理由は全くなかったから国境の確定はそれほど重要だとは考えられていなかったに違いない。日本軍は、その誰も興味を持たなかった地までもオノレのものにしようとしたのである。
こうして1938年7月29日、張鼓峰事件が起きる。張鼓峰は満州国東南端の琿春市にある山だ。国境は頂を通る線によって引かれているとソ連は考えていた。日本軍はそう考えていないかった。そのために起きた国境紛争だった。実はこれが、ソ連がスターリン体制となってから起きた最初の対外武力衝突になった。スターリンはこれを重く見た。そのため翌1939年5月から始まるハルハ戦争(ノモンハン事件)では、重装備した部隊を大量投入し日本軍を圧倒する戦略に出た。
第二次世界大戦がはじまるのはこの年の9月1日だ。スターリンは慌てて日本との休戦協定を結んだ。極東に兵力を回している余裕が無くなったからだ。1941年4月13日、これを一歩進めて日ソ中立条約を交わした。これは相互に領土の保全および不侵略を約束し、締約国の一方が第三国から攻撃された場合も中立を維持すると約したもので、有効期限は5年とされた。
そして1941年12月8日。真珠湾攻撃で、日本も第二次世界大戦に巻き込まれていく。
言うまでもない話だが、1946年4月12日まで有効なはずの日ソ中立条約は、日本の敗戦がほぼ確定すると、スターリンによって一方的に破棄され、1945年8月9日、日本に対してスターリンは宣戦布告している。