蒋経国という生き方#10/蒋経国的閉幕
「蒋経国は糖尿病だった。かなり早い時期に判明していた。しかし彼は仕事に塗れて、これを放置していた。そのため、父の後を受けて総統となった時、実はかなり容態は悪化していた。体力の低下が著しかった。彼はそれを圧して政務に尽くしていたんだ。」
1979年1月1日、ジミー・カーター政権は米中の国交樹立に伴い、台湾/中華民国との国交断絶、米華相互防衛条約の失効を宣言した。台北の株式市場は暴落した。蒋経国/台湾は窮地に陥った。
「幸いジミー・カーターのお先走りは米議会によって抑制された。アジアにおける安全保障を考えるならば、このまま台湾が中国に飲み込まれることは極めて宜しくない。議会はそう判断したんだ。首の皮一枚で蒋経国は崩落せずに済んだ。」
「でも国際的には孤立したままだったんでしょ?」
「ん。で、彼は考えたんだ。この窮地を超えて台湾が生き残るには、民間レベルでのネゴシェーションしかない!とね。なので文化交流/経済交流の窓口を国交断絶した国に幾つも設けた。ビジネスの輪は断ち切らなかった。アメリカにも日本にもアジアにも、そして欧州にもこうした窓口を精力的に設けて活発に活動したんだ。いわゆる『総体外交』を励行したんだ・・それだけでも彼が指導者として卓越した人物だったことが窺える。」
「思想より商いね。あなたがいつも言ってることね。」
「そうだ。商いは主義主張を超える。それが道理だ。蒋経国はその原理を正鵠に理解していた。
それに実際問題、米中の顔色を窺って国交断絶を言い出したとしても、経済的に台湾と繋がっている国々にとって、とばっちりで経済関係まで壊されちまったらとんでもない話だからな。
何れの国も、台湾の『総体外交』を受け入れたんだ。
いつの時代だって、貿易による相互依存ほど戦争抑止力があるものはない。その原理も蒋経国は分かっていたんだよ。こうして国家的に孤立しながらも、台湾はじっくりと経済成長を遂げていった。・・その蒋経国が、ついに倒れたのは1980年1月だ。
彼の入院は、前立腺手術のためと発表された。しかし翌1981年、82年と立て続けに倒れると、はじめて糖尿病性の末梢神経障害と発表された。 実は深刻な状態だった。病床から起き上がれなくなっていた。目も見えなくなっていた。しかし執務は止めなかった。三男の蒋孝勇を枕元に置いて伝言で政務を執ったんだよ。壮絶な晩年だ。」
1981年6月の中国共産党第11期六中全会で、鄧小平が党中央軍事委員会主席になった。中国は彼のものになった。
「鄧小平は、蒋経国と同じくモスクワ中山大学の卒業生だ。彼は、病に臥す蒋経国を見て、機は熟したと見た。一つの中国は俺の手で為す・・と考えた。」
「モスクワ中山大学の卒業生って、ほんとに中国の中枢部を構築したのね。」
「うん。中国共産党から派遣された者も、国民党から派遣された者も、以降の中国で要(かなめ)な存在になったんだよ。」
「国民党からの人も?」
「うん。多くが中国共産党の中に組み込まれたんだ。当時の中国側対台湾政策/副責任者だった廖承志もそうだった。彼は蒋経国と同級生だった。国民党要人の子息でね。年齢的には二つ上だった。
彼は鄧小平の指示で、病に臥している蒋経国へ公開書簡を書いている。
手紙は兄から弟へという形式を取っていた。
廖承志は、もうこれ以上重ねた遺恨に振り回されるのはやめよう。共に先人の夢、祖国統一という夢を我々の手で為そうと書いた。父(蒋介石)の霊を郷里に戻し、先人と共に祭ろうと書いた。諄々たる思いを込めた手紙だった。同級生で、それも同じ国民党要人の子息だから書けた万感の思いを込めた手紙だったんだ。」
「蒋経国は?」
「応えなかった。彼は従来からの「妥協せず/接触せず/交渉せず」いわゆる三不主義の姿勢を崩さなかった。・・崩せなかった。」
「どうして?」
「廖承志/蒋経国の云う『祖国統一』とは台湾が赤化することだったからだ。蒋経国は、台湾の赤化は受け入れられなかった。彼自身、青年期には共産主義に染まったことがあるしね。モスクワも体験している。共産主義が孕む二面性を骨の髄まで知っていたからだろう。彼は廖承志の熱い思いに沈黙したんだ」
「辛いわね。どうしても台湾を赤化したくなかったのね。」
「それでも鄧小平は、蒋経国へラブコールを出し続けた。
三通(通郵/通航/通商)四流(学術/文化/体育/工芸)を宣言すると、まずは貿易関税を撤廃した。そして廈門の経済特区を台湾に開放した。台湾に対しても少しずつメインランドへの直接投資の門戸を開いたんだ。」
「思想より商い・・ね。」
「そうだ。全ては通商に解決の糸口があるんだよ。それが大原則だ。」
しかし時は迫っていた。蒋経国に遺された時間は少なくなっていた。最後に・・指導者として決断しなければならないときがきていた。
「戦後40年経って外省人も、その子息の時代になっていた。蒋介石と共に台湾へ渡ってきた人々で存命の者は著しく老齢化していた。蒋経国は1985年7月、いままで非公式に行われていた香港などを経由する中国との間接貿易を公認した。そして11月に大陸親族訪問解禁した。実質的な帰郷を認めたんだよ。」
「・・重ねた遺恨を忘れ・・父の魂は還せないとしても、部下たちは還してあげよう・・蒋経国は廖承志の言葉に従ったのね。」
「うん。じつはそのときもうひとつの大きな事件が起きた。フィリピン/マルコス政権が崩壊したんだよ。1986年2月だ。マルコスもまた独裁者だった。その彼が民衆の力で王者の席から引き摺り下ろされたんだ。フィリピンは大混乱に陥っていた。おそらく僕は、そのマルコスの末路が・・マルコスの家族の末路が、蒋経国の決断を即したんだと思う。」
「奥様は、ファイナさんは一緒に暮らしておられたのよね。」
「そうだ。同じ邸にいて甲斐々々しく蒋経国を支えていたからね。イメルダにはさせたくない・・と思っただろうな。」
蒋経国は1986年3月、国民党第十二期三中全会で政治革新を決議させた。後継者を我が子にはしないと宣言した。そして10月15日、国民党中央常務委員会で戒厳令を解除を宣言。台湾に新しい時代が訪れたことを内外に示した。
「病を圧して、この国民党中央常務委員会に出席した蒋経国は、壇上で『時代は変わった。環境も変わった。潮流もまた大きく変化しつつある。このような変化に対応するためには、執政党として新しい観念、新しいやり方で民主憲政の上に立って、革新措置を推進しなければならない。」と切々と語ったんだ。軋轢を越えて遺恨を越えて、共に生きよう・・と。」
市井に国あり。
野球帽にジャンバー姿で地方を歩き、町の人と気軽に話し、気軽に飲み食いし、その不満を聞き夢を聞いた蒋経国の究極の心がそれだったに違いない。
1987年6月下旬に蒋経国三条件を織り込んだ国家安全法が成立。1987年7月15日、38年間続いた戒厳令が解除された。この戒厳令解除の直前、蒋経国は本省人の地方長老と会談を開いた。その台湾各地から招聘された12名の前で、彼は『私は台湾に住んで40年、すでに台湾人です。もちろん中国人でもあります』という有名な言葉を発した。
「蒋経国は言いたかったんだ。時代と共に台頭してきた台湾ナショナリズムが・・ともすれば内省人だけに走りがちだった台湾ナショナリズムは・・本来は、この島に生きて共に伸びてきた人々が内省人/外省人関係なく持つべき帰属意識なんだ・・と。」
1987年10月10日の双十節のとき、蒋経国は車椅子姿で人々の前に立った。すでに視力は失なわれていた。そして翌年1988年1月13日、家族に看取られながら逝った。77歳であった。