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東京島嶼まぼろし散歩#33~おわり/伊豆諸島13

「じゃ伊豆諸島の人たちは日本国民じゃなくなったの?」
「いや日本国民だ。SCAPIN677に日本国民じゃなくなるとは書いてない。677の正式名は「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」というものだ。日本の主権の放棄には触れていない。いわゆる外地の扱いにもしていない。日本の潜在的主権は維持されている。だから日本国民だ。しかし施政権は、アメリカのものになるという意味だ」
「よく意味が分からないわ」
「施政権というのは、住民に対して、立法/行政/司法の三権を行使する権限だ。これを日本は取り上げられた」
「三権は取り上げられたけど、日本国民ということ?ますますよくわからないわ」
「沖縄もそうだよ。沖縄も施政権を日本から取り上げたが、人々は日本国籍のままだった。ンンもう少し、突っ込んだ話をするとニミッツ布告のことから始めなくちゃならんから、これ以上はしない。ただ自治組織としてトカラ列島お/奄美群島には臨時北部南西諸島政庁、沖縄諸島には沖縄民政府、宮古諸島には宮古民政府、八重山諸島には八重山民政府、小笠原諸島にはボニン諸島米国軍政府というのが作られた。・・いわゆる本土復帰というのは施政権が米国から日本に戻ったと云うことだ」
「そう・・まあよくわからないけどで・・それで伊豆諸島はいつ本土復帰したの?」
「3月22日。SCAPIN841で、677の修正が行われた。841の正式名は『特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件』だ」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9885921
「60日くらい!!ずいぶん早かったのね」
「日本政府は「伊豆諸島の現状の情報要請」という御伺書を2月26日に出している。まあ、強い要請は出来ないからな。でもせめて御伺書という形で『それ違うんじゃないの?」という投げ掛けをしてるんだ。太平洋アメリカ陸軍(AFPAC)は伊豆諸島をグアム・サイパンから続く島嶼として、わりと考えもせず『我が物』としたんだろうと思う。しかしどう考えても古来から伊豆諸島は日本の管理化にある。グアムサイパンのように昭和に入って日本のものになったわけではないだろ?」
「たしかにそうね」
「この2月26日の御伺書への回答として、AFPACは翌月SCAPIN841で677の訂正をしたんだ。」
「すごいわね」
「ん。この訂正で、伊豆諸島はGHQ/SCAPの統治下になった。要するにボールが右手から左手に移ったということだ」
「でも東京都の管理下になったのね」
「でも3月だろ?昭和21年の日本政府は新円の発行と統一選挙を控えていたんだ」
「間に合ったの」
「新円は遅れた。届かなかったんだ。統一選挙も当初はムリだろう。選挙用紙が届かない・・と言われたんだ。だがこちらの方は直前になんとかなった」
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E5%BF%97%E8%80%83-1969%E5%B9%B4-%E7%AB%8B%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E6%B2%BB/dp/B000J9G510
立木猛治氏の『伊豆大島志考』から引用する。
「農家に肥料なく漁船は動力油が手に入らず,家畜は飼料の配給途絶とともに早期に売却処分したので,乳も肉もなく,山中に「ハツクリ」と称する草根を探し掘って食べたのもこの頃のことであったが,幸いにして死者の出る程ではなかった。」
「一万の守備隊が復員帰還後の村々は,民家は毀たれ耕地は荒廃に帰し,樹林は容赦なく伐り倒されて,残されたものとしては,山頂から海岸に至るまで蜘蛛の巣のように掘られた待避壕と,茫々たる飛行場の草原だけであった。杜甫の詩に「国破在山河 城春草木深」とあるが,この時初めてその実感を知らされた。」
「大変な動乱の中で伊豆諸島の人たちは終戦を迎えたのね」
「ん。それと・・もうひとつ。大島憲章というのがある」
「何?それ?」
「SCAPIN677で、伊豆諸島は日本政府から切り離されたろ? だったら自分たちで自治政府を作ろうじゃないか! という運動が有ったんだ。沖縄の沖縄民政府みたいなものをな。その民政府のための憲法が大島憲章だ」
「作られたの?」
「ん。作られた。でもSCAPIN841が出て立ち消えになった。・・実は、沖縄を含めて島嶼の知識人は共産党員が多いんだ。いまでもそうだ」
「それはそれで・・びっくりね」
「大島憲章はバリバリの共産党員だった雨宮政次郎さんという方が中心になって起したものだ。ソビエトの憲章を模している」
https://www.jcp-tokyo.net/2022/0909/70932
「大島憲章は行方不明になっていたんだが、1997年になって原本や制定当時の資料が発見されてね。いまはある程度経緯と詳細がわかってる。共産党の機関紙『赤旗』に写真が載ってるよ」
東京都の管理下に戻っても、伊豆諸島は何れも貧しいままだった。東京都本体が餓死者の対処に翻弄しており、島嶼部についてはとても手が回らない・・というのが本音だったのだろう。それでも1949年には東京から大島の運航が再開された。1963年には大島空港が開港した。観光として伊豆諸島は活路を見出したんだ。宿泊形態も民宿からホテルに変わっていったんだよ。すべてが交通環境が改善されたことだな。交通手段が整って「気軽に行ける秘境・離島」として高度成長期のレジャーとして確立していったんだ」】

「じゃ伊豆諸島の人たちは日本国民じゃなくなったの?」
「いや日本国民だ。SCAPIN677に日本国民じゃなくなるとは書いてない。677の正式名は「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」というものだ。日本の主権の放棄には触れていない。いわゆる外地の扱いにもしていない。日本の潜在的主権は維持されている。だから日本国民だ。しかし施政権は、アメリカのものになるという意味だ」
「よく意味が分からないわ」
「施政権というのは、住民に対して、立法/行政/司法の三権を行使する権限だ。これを日本は取り上げられた」
「三権は取り上げられたけど、日本国民ということ?ますますよくわからないわ」
「沖縄もそうだよ。沖縄も施政権を日本から取り上げたが、人々は日本国籍のままだった。ンンもう少し、突っ込んだ話をするとニミッツ布告のことから始めなくちゃならんから、これ以上はしない。ただ自治組織としてトカラ列島お/奄美群島には臨時北部南西諸島政庁、沖縄諸島には沖縄民政府、宮古諸島には宮古民政府、八重山諸島には八重山民政府、小笠原諸島にはボニン諸島米国軍政府というのが作られた。・・いわゆる本土復帰というのは施政権が米国から日本に戻ったと云うことだ」
「そう・・まあよくわからないけどで・・それで伊豆諸島はいつ本土復帰したの?」
「3月22日。SCAPIN841で、677の修正が行われた。841の正式名は『特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件』だ」

「60日くらい!!ずいぶん早かったのね」
「日本政府は「伊豆諸島の現状の情報要請」という御伺書を2月26日に出している。まあ、強い要請は出来ないからな。でもせめて御伺書という形で『それ違うんじゃないの?」という投げ掛けをしてるんだ。太平洋アメリカ陸軍(AFPAC)は伊豆諸島をグアム・サイパンから続く島嶼として、わりと考えもせず『我が物』としたんだろうと思う。しかしどう考えても古来から伊豆諸島は日本の管理化にある。グアムサイパンのように昭和に入って日本のものになったわけではないだろ?」
「たしかにそうね」
「この2月26日の御伺書への回答として、AFPACは翌月SCAPIN841で677の訂正をしたんだ。」
「すごいわね」
「ん。この訂正で、伊豆諸島はGHQ/SCAPの統治下になった。要するにボールが右手から左手に移ったということだ」
「でも東京都の管理下になったのね」
「でも3月だろ?昭和21年の日本政府は新円の発行と統一選挙を控えていたんだ」
「間に合ったの」
「新円は遅れた。届かなかったんだ。統一選挙も当初はムリだろう。選挙用紙が届かない・・と言われたんだ。だがこちらの方は直前になんとかなった」

立木猛治氏の『伊豆大島志考』から引用する。
「農家に肥料なく漁船は動力油が手に入らず,家畜は飼料の配給途絶とともに早期に売却処分したので,乳も肉もなく,山中に「ハツクリ」と称する草根を探し掘って食べたのもこの頃のことであったが,幸いにして死者の出る程ではなかった。」
「一万の守備隊が復員帰還後の村々は,民家は毀たれ耕地は荒廃に帰し,樹林は容赦なく伐り倒されて,残されたものとしては,山頂から海岸に至るまで蜘蛛の巣のように掘られた待避壕と,茫々たる飛行場の草原だけであった。杜甫の詩に「国破在山河 城春草木深」とあるが,この時初めてその実感を知らされた。」
「大変な動乱の中で伊豆諸島の人たちは終戦を迎えたのね」
「ん。それと・・もうひとつ。大島憲章というのがある」
「何?それ?」
「SCAPIN677で、伊豆諸島は日本政府から切り離されたろ? だったら自分たちで自治政府を作ろうじゃないか! という運動が有ったんだ。沖縄の沖縄民政府みたいなものをな。その民政府のための憲法が大島憲章だ」
「作られたの?」
「ん。作られた。でもSCAPIN841が出て立ち消えになった。・・実は、沖縄を含めて島嶼の知識人は共産党員が多いんだ。いまでもそうだ」
「それはそれで・・びっくりね・・んん、びっくり・・」
「大島憲章はバリバリの共産党員だった雨宮政次郎さんという方が中心になって起したものだ。ソビエトの憲章を模している」

https://www.jcp-tokyo.net/2022/0909/70932

「大島憲章は行方不明になっていたんだが、1997年になって原本や制定当時の資料が発見されてね。いまはある程度経緯と詳細がわかってる。共産党の機関紙『赤旗』に写真が載ってるよ」
ipadで赤旗の記事を見せようと思って立ち上がったら・・いつの間にか嫁さんは寝てた。
おやおや、枕に伝わるエンジン音もモロともせず、僕の話に飽きて寝ちゃった・・
伊豆の話じゃなくて戦争の話になっちゃったからなぁ~つまんなかったのかもしれない。

でもね。戦争が終わって、東京都の管理下に戻ってもね、伊豆諸島は何れも貧しいままだったんだよ。東京都本体が餓死者の対処に翻弄していて、島嶼部についてはとても手が回らない・・というのが本音だったんだよ。
だけど1949年には東京から大島の運航が何とか再開されたのは東海汽船の尽力が有ったせいなんだ。民間の力が大きかったんだ。そして1963年には大島空港が開港した。これも民間の力だ。三井が島貿易を仕切った時も、逝ってみれば島を支えたのは国家じゃなくて民間なんだ。
観光として伊豆諸島は活路を見出ししていくのも、町場からはじまった業態変革なんだ。三次産業に側面援助するのはもちろん官吏だけど、動くのは民間さ。こうして高度成長期に相まって伊豆諸島は、宿泊形態が民宿からホテルに変わっていったんだよ。
すべてが交通環境が改善されたことからだ。こうして交通手段が整って「気軽に行ける秘境・離島」として高度成長期のレジャーに伊豆諸島も小笠原諸島は相乗りしたんだ。それが地域として行く残る方法だっだ。

陽はいつの間にか沈んでいた。嫁さんはすっかり寝込んでいた。僕は僕のベッドからブランケットを取って嫁さんにかけた。いつもいつも申し訳ないね。僕の寝言みたいな、おしゃべりに付き合ってくれて。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました