堀留日本橋まぼろし散歩#14/外堀・呉服橋御門外#03
雪岱と名乗ることになる小村泰助は、明治⒛年3月22日、埼玉県川越郭町に生まれた。4歳のとき父が日本鉄道会社に勤めたの契機に上京した。しかし翌年ひまの父が他界したため、一家は川越に越している。再び上京したのは尋常小学校を卒業したのちで、神保町の叔母の家で暮らした。
上京した翌年、紹介する者が有って宮内省出仕の書家安並賢輔方の書生となった。安並賢輔方の家が日本橋檜物町に有ったのである。彼は一番多感な時を日本橋檜物町で過ごしたわけである。
呉服橋門外は、大店と貿易会社が並ぶ日本橋と、日本橋川対岸を背に、華やかな遊郭の地として確立していた。
長文だが彼が書いた「日本橋檜物町」を引用したい。
「私は明治四十二、三年の頃まで、日本橋の檜物町二十五番地で育ちました。
丁度、泉鏡花先生の名作『日本橋』にかかれました時代の事で、その頃のあの辺は、誠に何とはなしに人情のある土地でありました。 二十五番地と申しますと、八重洲岸から細い路次を入って左側の一廓で、私のおりました家は、歌吉心中と云って有名な家で、こまかい家の建てこんでいたあの辺に似合わず、庭に小さい池があり、間数は僅か四間の狭い家でありましたが、 廻り縁に土蔵のある相当に古い建物で、この土蔵の二階の真黒になった板敷に心中の血を削ったあとが白々と残っておりまして、いかにも化物屋敷の名のつきそうな家ありました。私方ではこの事を少しも知らず、引越しの真最中前の染物屋の隠居に注意をされまして、老人などは甚だ気味悪がりましたが、とにかく此所に居据り、永年の間住まいましたが、別に不思議なことはありませんでした。
家の横手にすこしの空地がありまして、真中に元の総井戸の跡へ引きまし共同の水道栓があって、空地を囲って、芸者屋、役人、お妾さん、染物屋、町内の頭、魚屋、魚河岸の帳つけ、それに私の家の小さな勝手口がぐるりと取り巻いていました。
頭の家では雨が降りますと、多勢の人が集ってよく木遣の稽古をしておりました。私も門前の小僧で少しは覚えましたが、いつの間にか皆忘れてしまいました。この頭のおかみさんが此所でも評判の美しい人で、頭の恋女房という事でした。 色の白い誠に姿のよい人で、小さな女の子がありましたが、子を抱かせるのは気の毒なほどの若々しさでありました。このおかみさんが、ひどい霜の朝など、前の晩の火事へ駆けつけて夜明に帰って来た頭の刺子袢纏を、水道へ大盥を持ち出して重そうに洗っていますのをよく見かけました。
ひどい寒さに白い手で重そうに刺子へ水をかけている姿をまことに、いたいたしくも美しいと思いました。その時分にいたずらをしていた近所の女の児は、今では土地の大姐さんになっております。
そしてこの一廓は震災の時にことごとく焼けまして、あと暫く焼野原となっていましたが、今ではその跡に見上げるような石造のビルデングが建ちまして、元の一廓は地面の底へ埋められたような心持がいたします。このほど人を訪ねてこのビルデングへ参りました。この日は誠によく晴れた静かな日でありましたが、応接間で人を待っておりますと、昔の事が思い出されて、
何となく空の方で木遣の声が聞えるような心持が致しました。」
「この小村泰助に「雪岱」の名を授けたのは泉鏡花だ。鏡花は小村泰助の中に何か光るものを見たのかもしれないね。関東大震災がこの辺りを焼き尽くす前の話だ。
八重洲仲通りを永代通りを渡って、日本橋川まで歩いた。
「なにも残っていないんでしょう?」
「ああ、幾つか老舗は有る。しかし町としての痕跡は、先の大戦がこの辺りを焼き尽くしたからな、なにもない。その上に戦後は朝鮮戦争の特需景気が旋風のように駆け回った。街は完膚まで姿を失ったよ。そのうえ、この蓋さ」
僕は日本橋川の上を走る首都高速を顎で指した。
「この蓋が、今はこの街の象徴になってる」
「この川って神田川じゃないの?}
「神田川はJR水道橋駅西口近くにある小石川橋で亀島橋川と日本橋川に分流するんだ。日本橋川の方には上に首都高速が乗っかる。首都高速5号池袋線だ。雉子橋あたりからこれが首都高速都心環状線になる。亀島川を仕切る日本橋水門付近でようやく蓋が外れるが、500m先は隅田川だ。なんともやるせない都市計画の結果だ。いずれは地下へ首都高速は潜るが、いまは未だ無理だ。この無残な姿を見ながら出雲鏡花の話をするのは何とも哀しいな」