夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩4-10/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#10
https://www.youtube.com/watch?v=fSFm7qvolgE
リシュブール・ホテルⒶLe Richebourg Hotel(Rle du Pont, 21700 Vosne-Romanée)最後の夜のディナーは遅い時間にしてもらった。
http://www.hotel-lerichebourg.com/
午前中のロマネ自転車散歩が思ったより時間かかって、昼の食事が遅くなってしまったからだ。
レセプションにソムリエが居てガルソンと共に歓待してくれた。食事もワインも満足だった。
最初にリストに有ったFrançois LamarcheのClos de Vougeot Grand Cruをお願いした。
そのあと昨夜お願いしたJean-Pierre GuyonのNuits-Saint-Georges Les Argillats2017にした。
アリゴテはあまりお気に召さない嫁さんだが、不満の声は出なかったので芳しとしよう。
「A&Pのアリゴテより尖った感じはするわね」と言われた。
「A&Pのオーナー・オベール ド ヴィレーヌ Aubert de Villaineはアリゴテ保存協会の会長なんだ。昔からの古い葡萄だが、だんだん作る生産者がコートドール側にいなくなってきて。それで、彼がDRCの社長をしながら自分の畑ではアリゴテも手掛けている」
「へえ、そえなんだ。でも・・不思議よね」と言い出した。わ。でた・どうして病が。
「DRCってドメーヌ・ド・ロマネ・コンティでしょ?前に生産者は自分の会社に土地の名前を付けちゃいけないって法律があるって、いってたわよね。なぜDRCは許されているの?」
「なるほど、その通りだ。・・実は会社としてSociété DOMAINE DE LA ROMANEE CONTIを設立したのは1942年なんだよ。でもロマネ・コンティと称したのは1911年で、エドモン・ゴーダン・ド・ヴィレーヌが登録している。実はフランスにAOCとINAOが制定されたのは1935年なんだ。DRCという名前はそれより前にあった。だから例外として認められた・・のかもしれないな」
「AOCって原産地統制呼称法でしょ?INAOってなに?」
「Institutnational de l'origine et de la qualité。AOCの管理と運営する組織だ。フランスのワイン法の一番てっぺんにいる。
フランス国内でワインについての法整備が始まったのは1800年代後半なんだけど、フランス人だからウンニャモンニャが色々あってね。1907年にようやく纏まりつつあった。それがきちんと整備されたのが1935年さ。
おそらく1907年ころには、まだ土地の名前を自分の会社の名前にしちゃいかんなんてぇのは、思いつかなかったんだろうな。それと・・コンティ伯爵の畑は、あまりにも有名だったからな。それを生産者名にすることでイチャモンいう奴はいなかったんだろうと思うよ」
「コンティ伯爵って、ロマネーという名前に自分の名前コンティをつけちゃった人ね」
「ん。コンティ公は此処の畑を買ったけど販売しなかった。贈呈用と自分が呑むように独占したんだ。1789年までね」
「なぜ1789年?・・あ。フランス革命!」
「そう・・1789年。革命が始まって次々と僧侶き貴族が虐殺されたときコンティ公は命からがらドイツのコブレンツに亡命したんだよ。それで翌年、革命政府の顔色を伺って恐る恐る帰国したんが、結局1793年に逮捕されている。それでマルセイユの監獄に押し込められた。一緒に収監されたのがオルレアン公ルイ・フィリップ2世で、彼はギロチンの露になった。でもコンティ公は殺されなかった」
「どうして殺されなかったの?」
「わからない。記録はない。なにか裏で起きたんだろうな。彼は釈放されてバルセロナへ追放亡命になったんだ。そこで失意のもと亡くなった」
「なんか哀しい結末ね」
「彼が最隆盛期にポンパドール夫人と戦って手に入れたのがロマネーだ。そのとき鼻高々で、畑の名前をロマネ・コンティに替えたのさ」
「ポンパドール夫人って、ベルばらのポンパドール侯爵夫人よね」
「あぁあ~そうだ。パン屋のオヤジじゃない。それだ」
「なぜポンパドール侯爵夫人とコンティ公は戦うことになったの?」
「コンティ公はポンパドールが大嫌いだったんだよ」
「え~どうして?」
「ポンパドールってホントの名前は、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンという。肉屋の娘だった。貴族じゃない。でもフランス王ルイ五世の寵愛を受けて、侯爵夫人にまでなった人だ。それが、フランス王の直系で、王になる資格さえ持っていたコンティ公・ルイ・フランソワ・ド・ブルボンには我慢ならなかったんだろうな」
「嫉妬?」
「ん。知り合いの他人が偉くなると不愉快になる奴だったんだろうな。コンティ公はね。とくにポンパドール夫人は才色兼備で、彼女を贔屓にしている貴人が多かったから、それも気に食わなかったんだろう」
「でもポンパドール侯爵夫人って、平民からのし上がった人なんでしょ。他の王族への気配りは万全だったんじゃないの?」
「ん。たしかに・・でもコンティ公は、それさえも不快だったんだろうな。きっかけになったのは1747年に王のためにプライベートな観劇会を開くようになったときからだ。観劇会は王の小さな私邸で開かれた。観客は15名しか入れない。王と家族と数名の招待者だけだ。・・このリストにコンティ公は載っていなかった」
「そんなことから?!」
「ん。そんなことから・・だ。それ以来、コンティ公は一事が万事、ポンパドールの足を引っ張った。しかしコンティ公はそれを公然とは示さなかった。もちろんポンパドールは気づいていた。
そして1760年だ。銀行屋だったアンドレ・ド・クルーネンブールが金に困ってポンパドール夫人に内々でロマネーを売る話が彼の耳にも届いた。ルイ15世が一番お気に入りのワインだったからな。ポンパドール夫人は買うつもりだった。ところがコンティ公は横からその話に首を突っ込んだ。それでクルーネンブールが、ポンパドール夫人へ提示した値段の10倍。8000フランで買い取りの申し入れをしたんだ。クルーネンブールは尾っぽを振ってその提案に乗った。こうしてロマネーはコンティ公のものになったんだ」
「まるで映画みたいな愛憎劇ね」
「まったくだ。それでロマネーに、わざわざ自分の名前をつけたんだよ。戦利品としてね。ロマネ・コンティになった。そのうえ完全なプライベート・ブランドにした。気に入った人物だけに配る特別品にしたんだ。もちろんルイ15世には気前よく配ったけどね。コンディ公は得意満面だったろうな」
「ポンパドール夫人は?」
「彼女は沈黙した。そんなことで話を荒立てる人じゃなかったんだろう」
「えらいわね」
「そのルイ15世が天然痘で亡くなったのが1774年5月10日。ポンパドール夫人が結核で無くなったのは1776年4月15日だ」
「コンティ公は生き残ったのね」
「ん。しかしフランス革命へ巻き込まれていくんだよ。決して幸福な最後ではなかった。」
彼の全財産はすべて革命政府に没収された。その中にロマネ・コンティが含まれていた。1794年に書かれた報告書でこんなことが書かれている。
『ラ・ロマネのワインがコート・ドールのすべてのワイン、さらにはフランス共和国のすべてのブドウ園の中で最も優れているという事実を隠すことはできません。天候がよければ、このワインは他の好まれているクリマのワインとは常に一線を画しており、その鮮やかでビロードのような色、情熱と香りがすべての感覚を魅了します。手入れが行き届いており、8年目、10年目に近づくにつれて常に良くなっています。そして、それは高齢者、衰弱した人、障害のある人のための香油となり、瀕死の人々に命を取り戻すでしょう』
ロマネは結局地元の資産家たちのものになった。
「善きサマリア人というわけさ。でも・・そのとんでもない著名さのおかげで、ロマネ・コンティは名前は失わなかったというわけだ」