小説特殊慰安施設協会#26/1945年9月8日東京入城
9月8日に実行された東京入城で、神宮・赤坂・銀座・丸の内に駐屯する連合兵士(米兵)の数は、きわめて短期間で7万人を越えた。
それを支える兵站は、横須賀・横浜から、厚木基地から、函館富津岬から、晴海埠頭から、膨大な数のトラックによって運び込まれた。同時にジープを中心に多数の軍用車も運び込まれた。
特に晴海ふ頭は銀座・新橋が近かったことあって、大量の物資が下されて晴海通りを昼夜関係なく、接収した沢山のビルへ運び込まれた。この物流作戦が実行されると並んで、晴海に有った飛行場が米空軍に接収され、ここに連絡局が設けられている。
この晴海地区で接収されたビルは、大半が空軍管理になっていく。 こうして銀座・日比谷・丸の内は一夜にして米兵が闊歩する街へ変身したのである。
同時に、都内は米兵による強奪・強盗・強姦事件が多発するようになった。 実は、米兵による強奪事件は8月30日横須賀上陸後、すぐさま起きている。パトロールと称して数人単位で横須賀市内を巡回して歩いた米兵が民間人を襲ったのだ。強姦事件もすぐに起きている。以下、届け出された資料を引用する。
「二人の海兵隊員が、横須賀朝日町の民家に裏口より押し入り、家の者を銃で脅し、夫人M36歳と娘17歳を強姦した。」
「米兵2名が、市内の飲食店女中を強引に連れ出し、野毛山公園にあった米兵宿舎で、20数名で輪姦。仮死状態になった彼女を翌日、送り返した。」
届け出されたものだけでも毎日200件から300件の強姦事件が神奈川市内で起きていた。9月8日入城後、これがそのまま東京都内へ移ったのだ。
届けられた強姦・強奪事件に対して、警察は何もできなかった。できるのは終戦連絡中央事務所に報告することだけだった。そして同事務所も、これをまとめ、翌日GHQに書類として提出し「注意を喚起す」とする以外は何もできなかった。
天皇陛下の強い願いで為された無血開城である。悔しくて唇を血が出るほど噛んでも、米兵の暴虐に逆らうことはできない。もちろんGHQ側もこれを憂慮していた。しかし米兵たちの犯罪が、米軍内で大きな罪として問われることは、ほとんどなかったのも事実だ。ついこの間まで殺しあった相手である。心情的に「人として対等である」とするのは、現実には難しかったのだ。例えばだが、東京入城後、すぐに米兵3人が「気晴らし」で、道端で日本人男性2人を撃ち殺すという事件が発生したことがある。この米兵3人は、すぐさま逮捕されて死刑判決を受けたが、「日本兵は、我々にもっと残酷なことをしていた」という減刑運動が起こされ、その死刑は実行されていない。
都内(銀座)で最初の米兵による強奪事件が起きたのは、8日のマッカーサーによる閲兵式が終わった直後のことである。三々五々解散した米兵のうち、数人が銀座の街で、道行く人を拳銃で脅かしつけ、金品を奪ったのである。事件はその日から立て続けに起きた。強奪事件だけではない、民家や商店への強盗、そして強姦事件までが起きた。
あまりの兵士による犯罪事件の多発に激怒したマッカーサーは、10月1日に、銃を携帯して外出することを禁止するが、それまでの20日間、米兵の傍若無人な犯罪は止めどもなく続いている。
これに対して、警察も新聞も無力だった。
それでも内務省警保局外事課がこれを後日「進駐軍ノ不法行為」という小冊子としてまとめている。関心ある方は、同名で国会図書館のデジタルアーカイブを調べると閲覧できるので、調べてみてほしい。記載内容は、1945年8月30日~同年10月4日までで、以下その一部を引用したい。○○の部分は原文では黒く塗りつぶされている。
「強姦事件
(一)八月三十日午後六時頃 横須賀市○○方女中、34 右一人ニテ留守居中、突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、一名ハ二階四畳半ニテ○○ヲ強姦セリ。手口ハ予(あらかじ)メ検索(ママ)ト称シ、家内ニ侵入シ、一度外ニ出テ再ビ入リ、女一人ト確認シテ前記犯行セリ
(二)八月三十日午後一時三十分頃 横須賀市○○方。米兵二名裏口ヨリ侵入シ、留守居中ノ右同人妻当○○三十六年(注:ママ。「○○当三十六年」?)、長女○○当十七年ニ対シ、拳銃ヲ擬シ(注:擬する=(1)見立てる。なぞらえる。(3)刀などを突きつける。あてがう。)威嚇ノ上、○○ハ二階ニテ、○○ハ勝手口小室ニ於テ、夫々(それぞれ)強姦セリ(以下略)」
「九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハトラックニテ横浜市中區(注:區=区)山手町二一二番地共立女学校内、校長神保勝也ニ侵入各室ヲ物色シタル後現金二千七百十圓(注:圓=円)及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ」
「九月一日午後六時頃 トラックニ乗リタル米兵二名(中略)市内○○ニ来リ女中一名(24)連レ去リ(中略)野毛山公園内米兵宿舎内ニ於テ米兵二十七名(ニ)輪姦サレ假死(注:假死=仮死)状態ニ陥リタルモ(中略)三日米兵ニヨリ自宅迄送リ届ケラレタリ」
「○○方ニ侵入セル米兵三人ニ留守番中ノ妻(二八)(中略)奥座敷ニ連行、脅迫ノ上、三人ニテ輪姦セリ」
「九月十九日夜十一時頃、(横浜市)保土谷区、出征中○○妻(27)、(中略)ニ侵入シ「ジャックナイフ」デ情交ヲ迫リ、被害者之ヲ拒否シテ戸外ニ逃避セルヲ(中略)畠(畑)ニ連行、三名ニテ輪姦シタル。更ニ通中(注:ママ。通行中?)ノ三名ノ黒人兵ガ同所ニ於テ輪姦逃走セリ」
特殊慰安施設協会R.A.A.でも、山下町にあった「互楽荘」で強姦殺人事件が起きている。 「互楽荘」の営業開始は9月1日からだった。娼妓は80人ほど高松慰安部長の伝手で集められる予定だった。
そこへ開店前日夜中に100人以上の米兵が押し込んだ。当日は14人の娼妓が住み込んでいた。有無もなく、彼女たち全員がボロボロになるほど蹂躙されてしまった。 翌日、R.A.A.の社員が「互楽荘」へ行くと、散乱した家具と泥の靴跡が部屋中に広がり、部屋の隅に娼妓たちが虫の息で転がっていたという。
そのため開店は翌日2日になった。。 しかし開店してすぐ、娼妓の一人が来店した黒人兵を拒否。二日前の強姦が彼女の心をボロボロにしていたのだ。それでも無理やりしようとした黒人兵は、怒り狂って彼女を絞殺してしまう。そして逃走しようとするが、駐屯していたMPに射殺。
このため山下町「互楽荘」は即日閉鎖になってしまった。
日本国民の真なる解放者を標榜するマッカーサーは、自分の軍隊の中にこうした不逞な輩が居ることに苛立っていた。しかし彼が警告を繰り返しても犯罪は減らなかった。築地警察内にMPの詰め所を置いて、彼らによる警備を強化したが、それでも犯行は一向に減らなかった。痺れを切らしたマッカーサーは10月1日、銃を携帯しての外出を禁止している。同時にこうした米兵の犯罪について、日本の報道機関がニュースとすることを徹底的に弾圧した。新聞は米兵の強姦・強奪事件を「米兵によるもの」とは書けなくなった。「色黒の者、あるいは大男による」としか書けなくなったのだ。こうした米兵の犯罪は、時間と共に漸減していくが、現在に至るまで無くなることなく続いている。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました