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植草先生のことat TriBeCa

79年冬。僕はトライベッカTriBeCaの襤褸アパートにいた。トライベッカはね、ぜんぜん三角じゃなくて、キャナルストリート、ウェストストリート、ブロードウェイ、ビージーストリートに囲まれた台形をしている。なぜ、そんなところにいたかというと・・家賃が圧倒的に安かったから。それと知り合いのバンド屋が何人もいたからだ。それとデッカイ音出しても誰も文句を言う奴がいなかったから。

当時、僕はCV/gateにハマってた。control voltage/gateね。まだMIDIなんか無かった。だからコンピューターで音楽を演ろうと思ってた連中は手探りで色々なことを試していた。CV/gateはそのソリューションの一つだった。
たしか前の年だったかに、ローランドがMC-8を出していた。冨田勲とかミッキー吉野なんかが使ってた。でもね、120万円くらいするオモチャだったから、手も足も出ない。だから、みんな弱電が判るやつらは自作を試みていたんだ。僕もそんなビンボー・ミュージャンの一人だった。
ンじゃ・・仕事は、というと、日本人商社マン御用達のカラオケ・クラブのピアノ弾きだった。客は商社マンの酔客ばっかりで、彼らを相手に赤本片手で歌伴してた。ホントにヤな仕事だったけど、キャバレーカードもってないから、従業員ということで雇ってもらって毎夜毎夜「銀座の恋の物語」を弾くしかなかったんだ。・・そんなヤな思いをしても僕はマンハッタンにいたかった。

マンハッタンに首ったけ・・というより足駄吐いて屋根へ昇る勢いだったね。僕はこの街で老いて逝くんだろうなぁと普通に思っていたんだよ。
そんな無目的な・・なにも考えない20代後半の79年冬。12月。猛烈に寒い夜。東京からコレクトコールが有った。
「おい!ビンボー人から金とるのか?・・オフクロじゃねぇな。マネージャーの三舟さんでもねぇな。いったいどこのスットコドッコイだ?」と思いながら受話器を取った。どうせロクな報せじゃない・・と思った。電話は高校時代からのジャズ仲間サカヅメだった。
「植草先生が亡くなったよ」第一声がそれだった。
「・・そうか」この年の春に心筋梗塞で倒れて入院されていることは知っていた。たしか・・70歳?
「淀川先生が葬儀委員長をされたよ」
「・・そうか」生き残っていた方が葬儀委員長をするというお話を二人で談笑していたことは知っていた。それが現実になったのか・・
「奥さんは?梅子さんは?」
「意外に溌溂とされていた。先生は一時帰宅して自宅で倒られたそうだ」
「・・そうか・・気丈な方だから・・」
「日本に戻ったら、挨拶に行くといい」
「・・そうだな」
「きっと先生の残された蔵書と、コラージュなんかの作品を収める文庫を作る話になるだろうから・・それまでは帰ってこい」
「・・そうだな」
電話を切って、部屋へ戻る間に涙が止まらなくなった。部屋に戻りギシギシと軋むベッドに座り、窓の外の凍てつくマンハッタン/キャナルストリートを見つめながら嗚咽した。

先生の文庫は出来あがらなかった。「街で集めたものです。街へ戻してください」とおっしゃったそうだ。先生のイラスト入りサインがしてある本は、ファンたちに買い取られて・・街へ消えていった。それでいいのかもしれない。

歌よみは 下手こそよけれ あめつちの 動き出して たまるものかは

TriBeCa

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました