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葱鮪鍋の思い出

佃のウチでは、冬になると葱鮪鍋がよく出た。
鮪の脂身に近いとこを賽の目に刻んで、これを葱と一緒に煮込む。
トロは足が速いからね。きっとそれが理由で煮込んじまったんだと思う。赤みのほうは鍋の横に列を揃えて並んでたりした。
母の姉夫婦は揃って酒飲みで、絵にかいたような下町の人だった。叔父さんは定職を持たないまま、何か拵えモノをしちゃそれを鬻いでいた。叔母は浮世絵の摺師だった。その二人が我が家の一階に揃って居候していたのだが、まあウチの母とどっちが世帯主だか判らないほど堂々としてたね。
母は父が逝って、銀座のクラブでホステスをしていた。・・考えるとまだ母が30半ばにならない頃の話だ。子供心にも。ウチの母さんはきれいな人だなとおもうくらい美人だった。久我美子さんかな。あんな感じの人だった。
しかし、夜はいない。夜は居候の姉夫婦と僕だけの家になる。
居間/茶の間にTVが入ったのが皇太子さまご成婚の時だったから昭和33年ころだ。
そのTVが入った茶の間に常設で卓袱台が置かれており、晩食はいつも三人だった。
料理はたいていどう見ても酒のツマミばかりで、食器台やら氷冷蔵庫から出された作り立てじゃないものが多かった。小量な菜がいくつも卓袱台に並ぶ。同じものが二日も三日も出ることもあった。
僕がいまだに酒のツマミみたいなモノを好むのはこの時に付いた習慣だと思う。


その卓袱台に冬は葱鮪鍋がよく出た。鮪は柵で買ってきたりしない。半身を買ってきていたようだ。これを大雑把に叔父が分け、冬の脂が乗ったところは鍋で、赤身は刺身に叔母さんが仕上げていた。
叔父はあらかた自分のやる仕事が終わると、TVの前にドカッと座って日本酒をビールグラスでグビグビとやっていた。そのうち鍋が出る。鍋には長葱がぶつ切りで敷いてある。汁は醤油とみりん。これが卓袱台の上に設えたガスコンロの上でグツグツと煮られる。煮れたころ、叔母さんが台所から2cmほどのぶつ切りになった脂身たっぷりの鮪を持ってきて、これを入れる。そして1~2分でさっと上げる。あまり煮すぎると身がかたくなるので色が変わるくらいを見極めて、押さえ箸で取ると、叔母は小鉢に入れて「はいよ」と出してくれた。
こいつが滅法美味しかった。

・・母は徹底的に洋食の人だったので、こんな食事が出てくることは絶対になかった。
しばらくすると、鍋に春菊やえのきなどが援軍として参加する。木綿越しの片面が焼かれた豆腐も後追いかけで参戦する。これだけではない。最後には筋や血合いも乗ってきて、鍋はゼラチン状にトロトロになるのだ。
「明日は煮凝りだよ」と叔母さんは満足げに言っていた。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました