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本所新古細工#11/おわりに#02

「両国橋は大川に架かった最初の大橋だったんだ」突き出しを突っつきながら言った。
「それまで橋はなかったの?」
「ん。舟渡しとか言って、舟を並べてそれを繋いで橋にしたり、そのまま渡し舟だったりした。
それがな、振袖火事がきっかけで大きく変わったんだ。江戸が大川越えてこっち側まで領地を広げてきたんだ」
「人が増えたから?」
「ん~それもあるが、火事が広がらないように建物の密集を避ける目的で、武家屋敷/寺社の多くをこっち側に引越しさせたんだ。元禄の頃だよ。それがきっかけで本所深川は、鄙びた郷から江戸に大変身したんだ。新興住宅地で中々おしゃれだったからな。往時の文化人は挙って大川端に住みたがった。葛飾北斎とか、河竹黙阿弥、小林一茶、鶴屋南北、松尾芭蕉・・みんなこっち側のひとだ」
「そういえばウチの傍に"銭座跡"という碑があったわ。銅貨の形した石碑」
「さすがに亀戸の人だ。よくご存じで。江戸幕府は銭の鋳造所を芝網縄平から移したんだ。それも本所深川再開発の一端だった。でもその開発も葛飾から先には進まなかった」
「どうして?」
「葛飾辺りは将軍様とその直属家来の食べる農作物を作る直該地だったんだ。だから手が付けられなかった。そのまま雛なる郷のままで江戸時代を終えたんだ」
「で。明治に入って・・でしょ?大体話の展開はみえるわ。いつものパターンでしょ?」
「ははは。で明治に入って・・だな。
薩長明治政府に引きずり倒されて、徳川慶喜はいとも簡単に政権を放り出して蟄居しちまうんだ。びっくりしたのは周辺で徳川政権を支えていた諸藩の武家たちだ。おいおい冗談じゃねぇやって、みんな郷許に引き返しちまう。江戸中の武家屋敷が空き家になっちまうし、住民も一年もしないうちに半分になってしまっ。」
「・・その話、何回も聞いた。それで?」
「この辺も、そうだ。空き家だらけになった。でもね、この辺の武家屋敷の大名たちは華族様に歩成りしたんだよ。だからかなり多くの武家屋敷がそのまま持ち主一緒で華族様の大邸宅に様変わりしたんだ。だから本所辺りは、それほどは激変しなかった。激変したのは葛飾あたりから、錦糸町・砂町・平井町あたりだ」
「どうしたの?」
「幕府直轄地という楔が解けて、同時に農業地が工場地帯へ激変するんだ。明治政府は富国強兵の要に、日本国の工業化を目指した。立農から工業国家への転身だ。だからと言って、新しく人が増えるわけじゃない。農家の子息子女が農業から離れて、工業化社会の担い手になったんだ。同時に農地も片っ端に工場用地に転換された。その最たるものが今の墨田区・江東区・足立区・荒川区なんだよ」
「江戸時代から続いてた農地が?」
「ん。片っ端に工場になった。鐘紡・精工舎・札幌麦酒・自転車作り始めた宮田製銃所・ライオン歯磨の長瀬商店/花王・凸版印刷・東洋ゴム・マッチの新燧社・玉の肌石鹸の芳誠舎、それと無数の小さなメリヤス工業や皮革業店。言い出すと切りなくこの地に工場が立ち上がったんだ。同時に沢山の人たちがその工場で働くために移住してきた。実は北関東からの移住者がおおくてね、だからいまだに"おらぁへ戸っこだぁ”なんて不思議なイントネーションがあの辺りでは活きてる。墨田区から足立区・荒川区あたりは"辰巳っぷり"じゃない江戸っ子の郷なんだ。」
「でも、そのままもう100年きちゃったんでしょ?」
「ん。そうだ。広大な工場地帯になった地区へ地方から沢山の人が越してきて暮らした。そして根付いた。だから貴女が云うとおり、あの辺の人はあの辺で生まれてあの辺で育ってあの辺で結婚してあのへんで所帯をもつようになったのさ。クリント・イーストウッドの"ジャージー・ボーイ”なんだ」
「なるほどね。なんとなくイメージできるわね」
その町の変転を荷風と龍太郎はリアルタイムで見た。
そして荷風は「新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得た」と書き、龍太郎は「本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である」と書いた。
そして昭和。1945年3月10日の東京大空襲で本所区は96%、向島区は57%が焼失。数万人の無辜の人が亡くなった。
しかし朝鮮特需/ベトナム特需で輸出は日々増大し、この地の繊維/金属/機械生産企業は絶大な恩恵をあずかった。
そして現在に至る。
もちろん、今日本経済を覆っている経年疲労はこの町にも沁み込んできている。地方のシャッター商店街ほど顕著ではないが、地場産業ともいうべき前掲した企業はいずれも如何ともし難い低迷に陥っている。その停滞を反映して町はゆっくりと進化の勢いを止めた。いかほど活性化を叫ぼうと、それが空元気にしか見えないのは、本所深川こそ、まさに日本経済の縮図だからかもしれない。
両国「神田川」の帰路、再度両国橋の上から横綱町公園のほうへ振り返った。
「どうしたの?」家内が言った。
「楔がね。皇居と鹿島神宮のレイラインに打ち込まれた楔がね。気になるんだ」
僕がそういいながら東武タワー(スカイツリーとかいうらしい)を顎で指すと、家内が笑った。
「あ、そういえばスカイツリー限定の"丸ごとバナナ"買ってきてって言われてたわ。忘れてた」

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました