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ナダールと19世紀#09/風刺新聞記者として

1848年12月10日第二共和政の下、大統領戦が始まった。
候補は、臨時政府首魁カヴェニャック将軍を筆頭に、共和派のラマルティーヌとルドリュ=ロラン、獄中から立候補したラスパーユ、シャンガルニエ将軍、そしてルイ・ナポレオンだった。
実はルイ・ナポレオンは泡沫候補だった。海外生活が長くフランス語も下手だったし、見栄えも悪かった。しかし6月蜂起で労働者を惨殺しまくったカヴェニャック将軍は憎まれていた。共和派は優柔不断な者が多かった。党内で統一候補をまとめることができずに乱立し、組織票は見事に散らばった。おかげでルイ・ナポレオンが圧勝するという大盤狂いと相成ったのだ。まさに時代が味方したとしか言いようのない結果だ。

当時、ナダールはシャルル・フィリポンCharles Philiponのもとにいた。新聞界に戻っていた。フィリポンが主幹であるLe Journal pour rireの記者として活動していた。フィリポンは第二帝政時代に名を馳せた風刺画家兼編集者である。ナダールはフィリポンの下で水を得た魚のように時代を奔りまわった。辛辣な風刺画を描き、世相を抉る記事を次から次に書いた。しかしフィリポン自身はLe Journal pour rireを過去彼が出してきた新聞ほど過激にするつもりはなかったようだ。「面白新聞」と名付けたのはその意味もあろう。彼は政府によって発禁処分を受け続け、疲弊を重ねられるほど・・もう俺は若くないと・・自分のことを思っていたに違いない。

しかしナダールは、そうはいかなかった。29歳である。怖いものは何もなかった。そんなナダールについてフィリポンは、こう言ってる。「どんな場合にも毛布を自分の方に引っ張ってしまう。それがあのリヨン人の癖だ」
可能な限り、ただの笑い話で納めようとするフィリポンの裏をかいて、ナダールはフィリポンの隙をついて勝手に記事を入れ替え、風刺画を入れ替えたという。読者はそれを大喜びした。フィリポン自身も怒っては見るがそれ以上のことはしなかった。

Le Journal pour rireは1855年に廃刊となったが、ナダールはすっかり有名人になっていた。
ボサボサの髪と大仰な口髭、聊か自己顕示が強い言動と素振り。それが自分の広告だということを彼はしっかりと理解していた。己という「ナダールという商品」が、実は見方を換えればそれは、彼が戯画化し徹底的に揶揄したナポレオン三世の同行類例であることを・・彼は判っていたと僕は思う。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました