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ナダールと19世紀パリ#11/皇子大統領ルイ・ナポレオン

大衆に支持され大統領となったルイ・ナポレオンは、人々に皇子大統領Prince-presidentと呼ばれた。民が、烏合の衆である共和党勢による統制より、より強力な指導者を望んだからだ。ナポレオンはそれに応えた。しかし・・大衆に迎合し熱狂的に支持され立った指導者は早晩揶揄されるようになり、最後は引き摺り下ろされ石持って追われる。結局はルイ・ナポレオンもその道を歩む。

1849年6月、大統領となったルイ・ナポレオンは、動乱のローマ共和国を鎮圧するため、すぐさま派兵を行っている。もちろん世論を気にした人気取りが目的だった。第二共和政の大統領の任期は4年で、法律によって再選は禁止されていた。なのでそれを覆す"なにか"が無ければ、たまたま転がり込んできた大統領と言う椅子は「うたたかの栄光」で消えてしまう。彼は何よりもそれを恐れた。民衆の人気取りに奔走した。ところがその人気取り政策を、既存共和党勢力は徹底的に邪魔した。それが却ってルイ・ナポレオンを逆境のヒーローへ仕立てあげていくのだが。そして・・クーデターである。
1851年12月2日早朝、ルイ・ナポレオンは、突然、議会の解散と普通選挙復活を布告。反対勢力だった議員の自宅を襲い次々と逮捕した。このクーデタで25,000人が逮捕、約10,000人がアルジェリアに流刑となったという。

1852年1月14日新憲法制定。同年2月8日大統領令で7月王政下の官選候補制度を復活させた。
そして翌年12月2日、ルイ・ナポレオンは帝政宣言。こうしてフランスは「ナポレオン3世」が統治する新しい帝政国家となっていった。それが・・民が望み、その民の顔色を見ながら自己保身を図ったルイ・ナポレオンの協働によって紡がれた・・フランスの道だったのだ。共和制による帝政という諧謔である。

さて。その動乱の中で「もの言う男・ナダール」は何をしていたか。彼は写真術に夢中になっていたのだ。その頃のナダールは、大嫌いなルイ・ナポレオンのことなんぞ眼中になかった。写真術に没頭していたのである。・・結局のところ。ナダールにとって政治も人物像も、弄くり回す玩具の一つでしかなかったのかもしれない。ナダールは写真術という玩具を手に入れると、すべてを放り出して"それ"だけに没頭したのだ。
おかげで帝政確立の動乱に巻き込まれることなく、ナダールは次代へ、自らの可能性の駒を進めることができた。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました