LAST FRIGHT OF SAIGON#09/銃後のソウル梨泰院
1974年8月9日未明。僕は韓国・龍山にある米軍基地にいた。
龍山基地は元々日本軍の駐屯地だった。ソウルに隣接する広大な米軍基地である。その朝、僕はその下士官クラブEMにあるピアノの前に座っていた。仕事ではない。時間つぶしにピアノを弾いていたんだ。
このEMは、龍山基地に幾つかあったクラブの中でも一番広い施設だった。カウンターの上に、当時はまだ珍しかった大きなテレビが設置されている。まだ夜明け前だと云うのに三々五々、兵隊たちがこのテレビが目当てで集まり始めていた。
僕は所在なくポロポロとエリントンを弾いていた。気紛れな兵士からリクエストがあれば、カーペンターズとかエルトンジョン、ビリー・ジョリエルなんてティンパンアレイ(流行歌)も弾いた。丁度ダニーケイ・ショーのテーマ「サンクス・フォー・ザ・メモリー」を弾いているとき、すぐ傍にいた兵隊が言った。「はじまるぜ」僕はピアノから立つと、兵隊たちに混ざってテレビの前へ出た。
大統領官邸からの放送である。ウォーターゲート事件で失脚したニクソンの辞任演説だ。
兵士たちは、固唾を飲んでそれを聴いた。だれもがベトナム戦争の行方を気にしていた。その年の初めに南沙諸島へ中国軍が進攻したことで中越戦争が始まっていた。たしかに米軍はベトナムからの撤収を宣言していた。しかし南沙での中国軍の勝利は、米兵にとって決して明るい未来を指すものではなかったのだ。ニクソンの動向が何をもたらすか・・兵隊たちは誰もがそれを知りたがっていた。僕も知りたかった。
実は1971年8月15日以降の円高は、僕の生活に深刻な影響を与えていたのだ。僕は、大学の授業料と生活費を米軍のキャンプ回りで稼いでいた。だからドルでもらったギャラが円に換えると幾らになるのか、それによって今後何日働くか・何処で働くが大きく変わる。さすがに高額収入なMD(とても危険)な仕事は、前年末から激減していたが、普通の仕事はわりと有った。
じゃどのくらい影響があったというと。71年夏に360円だったドルは、翌年260円近くまで落ちた。
僕の給与はだいたい週500USD前後だったから、5週間で2,500USD。360円換算で90万円。これが260円だと65万円になる。90万円稼ぐには、6週間から7週間働くか、あるいは銃弾が飛び交うところへ赴かなくてはならなかった。実際には、300円前後で行き来していたが、それでもシビアな話なのは変わりない。
テレビの中のニクソンは、滔々と言い訳を並べていた。「なぜ」については一言も触れない。今後についても一言もない。兵隊たちは肩をすくめて早々とテレビの前からいなくなっていった。
「最後の最後まで、自分がなぜ嫌われもンなのか、こいつは判ってねえんだな。」隣にいた兵士が言った。「議会の信任がえられなくなったから、なんぞとよく平気で云えるもんだ。責任放棄だろう。とくに説明責任の放棄だろ。あんな奴にresingなんて言葉は使ってほしくないぜ。奴はquit。放り出してったんだ。」
僕はそのとき、その兵士がいうresingとquitの違いが判らなかった。もちろん、大統領の席にある男が使うresingという言葉の重さも判らなかった。
そのうち、テレビの前に兵士たちはいなくなった。僕だけになってしまった。ニクソンは滔々と世界平和について語っていた。
さて。この龍山基地だが。イテウォン梨泰院が隣接する"基地の町"だった。ネオンと喧騒と、乱立するバーと立ちんぼ女たちの町だ。
最初にバンド仲間に連れられてイテウオンの町へ出たのは1970年の夏だった。大学一年の最初の年だ。ステージが終わると、そのままEM(下士官クラブ)から、誰かが調達してきた軍用ジープに乗って毎夜出かける生活だった。町はゲートから歩いてもいける距離にある。通りに街灯はない。暗い町だった。そこに米兵相手のバーが密集した地帯が幾つかコロニーになって出来ていた。何処のバーも夏場は昼間の熱気が臭気とともに籠ったままの掘立小屋だった。そして店内も店外も、ドレスとも云えないペナペナなミニのワンピースを着た女たちが徘徊していた。
その女たちは口をそろえて片言の米語でいった。「アタシのオンニはね、VCと戦ってるのよ。」オンニとは"兄"のこと、VCとはベトコンのことだ。
イテウォンの女たちは、韓国を豊かな国へ激変させたのがベトナム戦争であることを、日々肌で感じていたのだ。・・僕が見て知っているソウルは、1970年の夏から1974年の秋までだが、たしかにその4年間だけでも、町の変わりようは驚くばかりだった。
同じく基地の町だった沖縄/コザ・那覇や、フィリピン/スービックのオロンガポ、横田・福生・横須賀が、仇花のように栄えて、急速に停滞していったのに比して、イテウオンは・ソウルは、違う道を辿っているように感じた。そして、そこで生きる人たちの心情にも、他の基地の町とは違うものがあったように思う。・・なんというか。他の基地の人々の腹の底にある"憎悪"が・・自分たちに金を恵んでくれている米兵への屈折した憎悪が・・この町は希薄だったように感じるのだ。それが米兵にも心地よかったんだろうと思う。イテウオンは、どの"基地の町"よりGIたちが心許せる町だったのだ。
僕がその差を歴然と感じたのは、1970年のクリスマス、僕の目の前で発生した「コザ暴動」の時だった。コザの町の人々には、ベトナム戦争のおかげで潤ったという気持ちは有ったが、あの戦争を共に戦ったという意識はなかった。当たり前だ。日本は(まだ沖縄は返還されていなかったが)、あの戦争で大儲けはしたが、我が子らは供出しなかったからね。だからどこまで行っても、日本人にとってベトナムで流れた血は"他人事"だったのだ。そこに共感はない。
だから、コザの人々にとって、米兵は金と力で我儘だけを通す傍若無人な輩でしかなかった。「コザ暴動」は、そんな"他人事"に引きずりまわされている人々の不満の爆発だったのだ。
比して、イテウオンの人々には。ひいてソウルの人々には、共に戦った者の共感が有った。もちろん20才をちょいと過ぎたばかりの若造だった僕が、それを正鵠に見つめていた訳はない。しかし僕はそれを"視線"として・・優しい視線として感じていたのだ。