見出し画像

ボルドーれきし ものがたり/はじまり

ボルドー/メドックの河口で河岸に立って「ここからがジロンド河だよ」と言われても、とてもそんな風に思えないのです。大西洋の続きにしか見えない。対岸が遥か向こうでよく見えないからです。何処からが海で何処からが河なのか?河岸を暫く歩いても、きりなく水平線が続いて"河"という実感は湧いてきません。
そんな大地の裂け目としか言いようのない大河ジロンド川。
鳥の目で視るならば・・大西洋に向かって左岸がジロンド県です。右岸はシャラーント・マリティム県。その広大な湖沼地帯はニオールを中心とする「緑のヴェニスVenise verte」からエギュイヨン湾Baie del'Aiguillonまで広がっています。正に景勝地。そして北にラ・ロシェルと云う旧港が控える。ラ・ロシェルは古代からボルドーの競合として栄えた街でした。

比して左岸のメドック/オーメドックは長い間、河に押し流されてきた土砂と泥が堆積する厄介な沼地でした。これを現在の姿に替えたのは、オランダ人です。彼らは得意の干拓技術を駆使して、メドック/オーメドックという地域を創出してみせたのです。500年ほど前の話です。爾来同地は葡萄を植える地として開墾されてきました。つまりですね、僕らが今畏敬の念で見つめている同地区は、まったくの人工物なンです。自然に有った土地ではない。葡萄畑を作るために意図的にオランダ人によって開墾され整備された所なんです。

なぜオランダ人はそんなことをしたか。その話は別稿でしたいと考えていますので、ここでは触れません。ただ、メドック/オーメドックが自然発生的な出来上がった葡萄作付け地域ではない・・と云うことだけをアタマの隅に置いといてください。

かくのごとくジロンド河流域は、左岸と右岸が別文化圏として生まれ発展してきました。これは現在でもそうです。この稿ではワインを中心にボルドーの歴史話をするつもりなんですが、右岸の話が出てくるのは、ずっと後。製糖がこの地区を救ったという話のときです。話は、しばらくジロンド河の左岸と、そのまま繋がって行くガロンヌ河左岸の話が中心となります。

ところで。このジロンド川ですが、実はその名で呼ばれる川筋は短い。河口から71kmくらいしかない。その辺りで二つの大河に別れます。一つはガロンヌ川、もう一つがドルドーニュ川です。その重なり合うところはク・ダンベース(le Bec d'Ambesアンベースの砂嘴)と呼ばれています。

ガロンヌ川の源流はピレネー山脈の奥深い山間部です。大きくうねりながらアキテーヌ盆地を北西に流れています。モノの本には長さ575kmとある。

ドルドーニュ川は、ボルドーの東の奥、中央山地が源流です。アキテーヌ盆地を西に向かって流れる大河です。こちらはモノの本によると長さ472kmとある。

つまり二つの大河が、広大なボルドーという地区の舞台であるアキテーヌ盆地を縦横に流れている。ボルドーの話をする時は、この二つの大河をいつもアタマの中に浮かべなくてはならない。ボルドーの全ては、この二つの川筋から生まれてきたからです。

そして、ボルドー/アキテーヌ盆地と人類の出会いはとても古い。その話をしようとすると、ほぼ40000年前の旧石器時代後期にまでさかのぼることになります。

画像1



無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました