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星と風と海流の民#46/扶南王国
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911直後のことである。カンボジア南部のケップ州へ度々通っていた。王立農業大学(RUA)Royal University of Agricultureの先生が始めた事業の手伝いをしていたからだ。品種改良で果皮を5%以下に抑えたココナツでバイオ・アルコールを作るビジネスだ。
その時、僕は(シンガポールはグリーンカードだけど)国籍が日本なので、カンボジア入りはマルチプルビザを利用していた。最初はアライバルビザだったが、ビジネス目的なので二回目からはこれにしたのだ。
RUAの先生は40代初めの人で、早口な気忙しい人だった。彼とは、滞在中は毎夜会食をした。
そのときに、何かのきっかけで扶南王国Fúnánをした。
後漢書・列伝のことだったと思う。RUAの先生はびっくりした顔をした。
どうやら扶南の話をした外国人に会ったのは初めてらしい。
彼の口から『梁書・列伝』の名前が出た。扶南王国は農治国家だったのだ。彼はカンボジアの農の始祖として扶南を見つめていた時期があったそうだ。
「ケップ州は扶南の時からすでに農業が栄えていました。始祖はハントゥマラという王で、梁書では混塗と記されています。彼は海からきたソーマ(柳葉婦)と結婚します。ソーマは地元の女王でした。ハントゥマラはどうやら西(インド)から流れた人らしいです」
「インドと地元の混合文化ということですか?」
「そうですね。灌漑技術を持ち込んだのは西からの人々ですね」
「アーリア人?」
「その可能性はあります。DNAからその痕跡が見つかっています」
「なるほど」
「扶南王国は、どうやら当初からヒンドゥーが中心で、3世紀から5世紀にかけて、領土を拡大し、ベトナム南部からタイ湾岸、さらにはマレー半島にまでひろがったといわれています。梁書』の中に語られています」
『南斉書・列伝』でも扶南王国が書かれているが、やはり記述量は圧倒的に『梁書・列伝』が多い。巻五十四 列伝第四十八がその部分に充る。
「近いうちにオケオOc Eoを訪ねたいと思ってるんです。Di tích Nền Chùaへ行きたい」と僕が言うと先生がほほ笑んだ。
「オケオですか。いまは国境が走っている。こちらからだとラチジャーThành phố Rạch Giáへ行くのもむずかしいです」
オケオOc Eoはベトナム側にある。ここの遺跡ではローマ帝国のコインやインドの宝石などが見つかっている。
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「扶南はAD500くらいから衰退しましてね。クメール人の真臘に押されて消失しました。その経緯も『梁書・列伝』に載っています・・ところでマイクさんはアンコール・ボレイは訪ねないのですか?」
「いえ、考えていませんでした。アンコール・ボレイも真臘の遺跡群があるところですよね?」
「はい。そこにアンコール・ボレイ博物館というのがあります。扶南の遺物もあります。カンボジア側では一番大きいです」
「アンコール・ボレイ博物館?」
「はい。アンコール・ボレイで出土した遺物が展示されています。ぜひ行かれるといい」
「はい。行ってみます」
「ご案内しましょう。私か、あるいは私の生徒を。詳しいものがおります」
「ありがとうございます」
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