星と風と海流の民#58/沖縄に縄文人の痕跡を訪ねて#03
太古、氷床となった海が後退し、地続きの道が現れたとき、ヒトはその道を歩み始めた。彼らは定住を常としなかった。定住はヒトの本性ではなく、漂泊し拡散し「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という行動原理こそが、ヒトの道なのだ。
やがて海が戻り、陸が消え、島嶼が点在するようになると、ヒトは巨木を焼き、その幹を刳り抜いて舟を作り、それを操り更に拡散を続けた。灌漑技術を手に入れ、農耕という安定した生活手段を得た後も、ヒトは新天地を求めることを止めなかった。その行動には、新しさへの渇望、驚きへの希求、そして未だ見ぬものへの期待と喜びがあった。
イヴの子供たちが歩むべき正道—それは、今なお変わることのない「旅人の道」である。
柳田國男は、この「海上の道」を明治の終わり、愛知県田原市南端の伊良湖岬で幻視した。伊良湖岬は、三河湾と太平洋、そして遠州灘との境界に位置する。その浜辺で柳田は、波に流れ寄った一本の椰子の実を見つめた。その驚きと郷愁を彼は友人である島崎藤村に語った。藤村はその情景を詩に昇華させた。それが、彼の有名な詩『椰子の実』である。
“流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月…”
柳田國男のエッセイには、しばしば藤村にまつわる話が登場する。そして、『海上の道』にもまた、藤村との交流が描かれている。その中で柳田は、旅人たちが辿った道筋と、その道に刻まれた記憶の痕跡を追想し、綴っている。
引用しよう。彼の最晩年に書かれたエッセイの一節を。
…椰子の話ではない部分ではあるが、柳田の視点は明確である。それは、漂泊の果てにあるものが何であるかを語りかけている。旅人の道は、単なる移動ではなく、そこに秘められた新しさの発見と、他者との交わりが生む文化の変遷である。それがヒトの本能であり、歴史そのものであると。
「二一 東方浄土観 しかし考えてみなければならぬことは、南から北へか、北から南へかはまだ決し難いにしても、ともかくも多くの島の島人は移動している。日本は旧国の誉が高かったけれども、この葦原の中つ国への進出は、たった二千六百余年の昔である。いわゆる常世郷の信仰の始まったのは、そんな新しいことではないのだから、もしも偶然にこの東方の洋上に、それらしい美しい島があったとしたら、かえって取扱いに困るところだった。しかもそういった現実のニライカナイを持たぬ、三十度以北に住んで後まで、なお引続いて南方の人たちと同じに、日の出る方を本つ国、清い霊魂の行き通う国、セヂの豊かに盈ち溢れて、惜みなくこれを人間に頒とうとする国と信じていたとしたら、それこそは我々の先祖の大昔の海の旅を、跡づけ得られる大切な道しるべであったと言ってよい。浦島子の物語をただ一つの例外として、『古事記』の常世郷への交通記事は、いずれも太平洋の岩辺と結びついている。少彦名命が熊野の御碕から、彼方へ御渡りなされたというのもなつかしいが、伊勢を常世の浪の敷浪寄する国として、御選びになったという古伝などはとくに殊勝だと思う。数知れぬ北太平洋の島々に、はたして幾つまでの種族が東方に浄土を認め、心の故郷を日出る方に望む者が、今も活きながらえ、古い信仰の記念を持ち伝え、または栄えて新らしい世に立とうとしているであろうか。幸いにして諸君の学問が、だんだんにこれを究め明らめることができるとすれば、他人はいざ知らず、自分は何よりもまず彼らの歩み来たった途が、どれほどの変化をもって、各自の艱苦を忍び各自の幸運を味わってきたかを尋ねてみたいと思う。(海上の道・岩波文庫)」
僕がこの本を読んだのは、まだ前々職に就いていた時代のことだった。当時、僕は旧い工場のメンテナンスを担当し、世界各地を歩いて回る日々を送っていた。時期としては、1980年代半ばだったと思う。仕事で訪れる先々には、いつも10冊ほどの岩波文庫を携えていた。これらの本は、町から遠く離れた郊外の工場で、錆びついた機械に寄りかかりながら、わずかな仕事の合間を縫って貪るように読み耽るのは僕の楽しみであり、心の支えでもあった。
柳田國男の『海上の道』を初めて手にしたのは、アンドラ・ラ・ベリャの中心を流れるベリャデオリエント川の畔だった。その場所と時の情景を今でも鮮明に覚えているのは、ある一節に心を揺さぶられたからだ。その一節にはこう書かれていた。
“はたして幾つまでの種族が東方に浄土を認め、心の故郷を日出る方に望む者が、今も活きながらえ、古い信仰の記念を持ち伝え、または栄えて新らしい世に立とうとしているであろうか”
この言葉を読んだ瞬間、私の心に強烈な記憶が蘇った。それは10年ほど前に訪れた南太平洋のナンマドール、満潮に沈む幻の都市だった。その鮮烈な記憶が、一瞬にして僕を現実から切り離し、眩い南洋の海辺へと引き戻した。そして、"星と風と海流の民"の物語とともに、夢幻の旅へと吸い込まれていった。真冬の豪雪に埋もれる寒冷な工場の中だった。
大いなる旅人。スンダランドの民について思いを巡らせると、彼らが辿った壮大な歴史の軌跡が見えてくる。スンダランドの民は、徐々にアジア大陸へと拡散していった。いわゆるモンゴロイドと呼ばれる集団の始祖も、彼らに起源を持つ。さらに、彼らが使用した言語であるオーストロネシア語も、スンダランドから始まったものである。
やがて間氷期に入り、海面が徐々に上昇し始めると、スンダランドの民の拡散は急速に進んだ。しかし、同時に島嶼化した地域では孤立化が進行し、それぞれの文化や生活様式が独自の方向へと分化していった。この流れに決定的な影響を与えたのが、12,700年前に起こったヤンガードリアス・トランジションである。
この時期には、グリーンランドとカナダの間に巨大な流星が落下したと考えられている。その衝撃による爆発は、膨大な量の氷床を一気に溶かし、海水の温度を急激に低下させると同時に、大量の淡水が海洋に流れ込む結果となった。この急激な変化は、海流を大きく乱し、間氷期にもかかわらず地球全体の気温を寒冷化させた。このような急変に耐えきれず、多くの動植物が絶滅したことが記録されている。
ナンマドールやスンダランドの民を想起するたび、僕は自然の壮大な力と、そこに翻弄されながらも生き延びてきた人類の逞しさを思わずにはいられない。そして、その記憶を辿りながら再び柳田の言葉に立ち戻ると、遠い昔から人々が抱き続けてきた心の浄土への希求が、現代を生きる私たちにも静かに受け継がれているのだと感じるのである。