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ナダールと19世紀パリ#26/忍び寄る不景気

セーヌ川を赤く染めたティエールは一度だけの大統領で終わった。政争に敗れ1873年退任。道半ばで、彼の政治生命は尽きた。そして失意のうちに4年後の1877年81歳で没している。主流を占めていた王党派も、1871年には461あった議席数を1876年では192に減らしている。人々の間で時代が大きくシフトした時だったと言えよう。だれもが疲弊するだけの戦争を望んでいなかったのだ。そして膨大な金がかかる戦後処理がフランスを覆った。
こうしてパリを血祭りにして始まった第三共和制は、GDPを遥かに超える借金を抱え込み、迷走し沈滞し、1890年中頃まで幾度かの恐慌を繰り返しながら長い不況期に入っている。ちなみにこのフランスの第三共和政は、倒れることなく現在まで続いている。

一方、英国等は産業革命が大きく伸びた。南北戦争(国を二つに割った市民戦争)後のアメリカも大きく変貌し始めている。何れも躍進の背景にあったのは「産業革命」という名の新しい技術の導入である。もちろんフランスにもこの新しい産業へのスタイルは早くから持ち込まれていた。しかしフランスでは劇的な効果をもたらさなかったのだ。
どうしてだろうか?
フランス語には「私のグラスは小さいが,それでも私は自分のグラスで飲む Mon verre est petit, mais je bois dans mon verre」という言い回しが有る。
これはとてもフランス人の"人となり"を表した言葉だ。

19世紀と言う枠の中で、産業革命が大成功した英国とフランスの人口を比べてみよう。
英国は19世紀初頭人口900万人だった。これが世紀末には3200万人になった。一方フランスは2700万人だったものが3900万人になるだけで終わっている。
農業従事者と二次産業従事者の比も、英国では多く人々が農業を離れ後者に移るが、フランスはそれほどでもなかった。工業も繊維産業以外はそれほどの伸びを見せないままだった。依然、豪農とそれにぶる下がる小作人がフランス人の大半を占めたままだったのだ。あらゆる意味で農民は保守的なものだ。今日の糧が有る限りは動かない。
たしかにパリは巨大化した。ナポレオン三世によって先進国フランスの象徴として華々しく花開いた。しかし血塗られ無数の死体が街に積み上げられた時、地方の農民たちはどう思っただろうか?我が土地を捨ててまで行きたい所・・と思っただろうか?

共和制を推し進めることで、フランスは強権を発動する者の芽を削いだ。フランスは、時代の成り行きに任せ「神の見えざる手」にのみ頼る30年を過ごしたのである。
ベルエポックという虚栄の向こうに死神のような不況が横たわっている30年間だった。GDPを遥かに超える借金を抱え、地場産業が冷え切った今の日本に・・重ねてしまうのは僕だけだろうか?

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました