国名の由来とユダヤ系渡来人の話#06
『宋史』を見ると、東海の島にあった倭国は421年(永初2)に遣使を宋へ送ったとある。所謂倭の五王の時代である。送ったのは讃とある。対応する王朝が記紀にあるか否かは置いて、ここはそのまま「讃」と呼ぼう。
実はこの前年、王朝創建時に宋は周辺諸国王の将軍号を送り、高句麗王や百済王もその地位を得ている。しかしこの中に東海の島にあった倭国はなかった。倭国王賛が来朝した理由はこれだろう。つまり賛を王とする倭国は、既に朝鮮半島の国々と何らかの通商があり、自分たちが対象とされなかったことを知ったのであろう。その立ち位置を不利を補填するための遣使であったと考えられる。
宋はこの遣使を喜び、讃に除授を賜ったとある。残念ながらその官爵号は史料に明記されていない。おそらく他の倭国と同じ安東将軍と見るのが妥当であろう。
4年後の425年(元嘉2)讃はが宋へ遣使している。そして430年(元嘉7)にも讃は遣使した。
そして再度、遣使したのは弟の珍。438年(元嘉15)である。
どうやら、この時期に東海の島にあった倭国と朝鮮半島にあった国々の間で大きな動きが有ったらしい。
讃の弟珍は自らを「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓(しんかん)・慕韓)国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称している。そして宋に上表しこの官爵号の承認を求めた。宋は認めなかった。
ところが443年(元嘉20)倭国新王済が遣使すると、宋朝は前例に倣い、済ま安東将軍・倭国王を命ずるが、8年後の451年(嘉28)遣使した際は「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されている。つまり宋は東海の島にある倭国が朝鮮半島にあった諸国を征服したと認めた・・というわけである。もちろん完全制覇ではなかったろふ。それでもかなり深く半島へ済の倭王が食い込んでいたことは間違いない。
462年(大明6)遣使すると、宋はまたこれを安東将軍・倭国王に任命した。『宋書』にはこののち、477年(昇明1)に済の子、武が遣使した。武は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称したと宋書にある。さらに開府儀同三司を称して、478年(昇明2)宋朝に遣使し、対高句麗戦を訴えている。宋はこの訴えに応えていない。しかし武を「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命している。
これが最後である。所謂倭の五王からの遣使は無くなる。
大化の改新まで100年、東海の島にあった倭国は、中国王朝との関係を断つ。
理由は判らない。
おそらくだが・・これは僕の妄想だ。倭国は、中華王朝の権威付けを持って周辺諸国を統治する必然性が喪失したのではないか。そう考えてしまう。
400年代初頭、かなり大きな朝鮮半島への逆流が有った。東海の島へ避難した半島の王族(百済/秦韓)が、100年越しで体制と体力をつけて、半島へ逆襲を計った。その経緯が宋書から窺い知れるのではないか。そう考えてしまう。