堀留日本橋まぼろし散歩#17/日本橋・魚市場#01
日本橋交差点から日本橋を渡ると「乙姫像の広場」がある。ここに「日本橋魚市場発祥の地」の石碑がある。ちょいと読み難い。嫁さんは乙姫の像のほうがになるらしい。
「なぜ唐突に乙姫様なの?」
「日本橋市場関係者の総意だということになってる。『日本橋 龍宮城の港なり』ということらしい。それなんで乙姫様。まあ洒落が効いてて良しとしようよ。あまり真剣に考えなくていい」
「それにしても・・乙姫様?それも江戸前というより、もっと洋風だけど」
「・・それも洒落ということで・・納得してくださいな」
「ふうん・・」
「日本橋魚市場発祥の地の碑は豊道慶中こと豊道春海が書いている。大正から昭和かけての天台宗の僧だ。書家として著名だった。東京浅草華徳院住職だよ。六朝風の楷書の人でね、独自の書風を作りあげたひとだ」
「ぜんぜん読めない」と嫁さんが言った。
「ん~俺も読めない」
田口達三という方が『魚河岸盛衰記』という本を残されているが、その中にこうある。
「日本橋魚市場は、徳川三百年の歴史とともに栄えて来た。日本橋は由緒ある史跡でありながら、今 ではビル街となり、やがては日本橋川の面影がなくなってしまうかも知れない。古えを偲ぶよすがは あの辺にすし屋、天ぷら屋が、三、四軒並んでいる程度にすぎない。
市場が築地に移る前に、日本橋で働いていた私どもには全く淋しい限りであった。そこで日本橋市場 に記念碑を建てよう。こんな話は戦前早く出ていたが、大東亜戦争突入で沙汰止みになってしまった。
戦後になって、再び記念碑建設の話が出ていたが、たまたま名橋日本橋補修協賛会というのが地元 に出来て日本橋復旧運動を起すことになった。この機に乗じなければと、この協賛会をはじめ、各 方面に、日本橋と魚市場との歴史的な深いつながりを説いて廻り、遂にその賛同を得た。
初め日本橋川畔に高さ 十二尺、巾十五尺という大きなものを計画したが、四・三尺に五・五尺程度 (転載時注釈: 十二尺は約3.6m 十五尺は約4.5m 一尺は約30cm) なら許すということになった。ところがその敷地内に、室町一丁目町会の国旗掲揚塔があって、 これが他に移らない限り建立の望みがない。そこで一丁目の人達に頼んで、これを移転してもらう ことで話がついた。
碑の大きさについても、都庁や警視庁、区役所を説得して廻り、高さ九尺、巾九尺ということで折合い がついた。これでは小さくて貧弱だが、何んとかこれで踏み切ることにした。そこで、旧日本橋魚市場 関係者四百二十二名で発起人会をつくった。昭和二十八年三月中旬に第一回の発起人会を開いて、 私が総代、佐久間仙一郎君が実行委員長となり、副委員長は大村市太郎、吉田幸十郎、関本徳蔵君 らが選ばれ、具体的な計画を立てることになった。
このとき決まったことは、台石は万成石を使って、出来れば高さ十二尺、巾十二尺の気品高き芸術 作品、日本橋魚市場沿革碑文及び江戸時代の魚市場繁昌の図を銅版にする。像は台石の上に海に 由緒ある石彫を置く。費用は二百万円とする等であった。
過去の碑石を調べてみると、大部分は石屋が中心で、彫刻家は石屋が適当に先生方に頼むという ことであった。これではいかん。誰かしかるべき彫刻家に直接依頼すべきである。そこで上野の芸術 大学の教授田中青坪先生を訪ねた。青坪先生は、それでは手腕の優れた同大学の教授山本豊市先生 がよかろうと、早速紹介してくれた。こうして山本先生が中心になり、石工は田鶴年氏、碑文は久保田 万太郎氏、文字の彫刻は発起人の一人である松丸東魚先生に依頼した。出来上がったのは昭和 二十九年六月上旬である。碑文には三月建とあるが、これは予定より原石の発送が遅れたりしたため である。
除幕式には安井都知事、久保田万太郎先生、豊道慶中先生、山本豊市先生等と発起人代表参列 のもとに盛大に行った。
こうして、里程の起点である由緒深い名橋日本橋の、室町より向って左側の川畔に、道路に面して この記念碑は永久に鎮座することになった。私が永年気になっていた一つの目的もようやくかなった というわけである。」
碑文は1m四方くらいの石に、毛筆で書かれた原文を忠実に刻んでいる・・豊道慶中の字は美しいけど読めない。
読めないけど・・転記する。
「日本橋魚市場発祥の地 昭和五十五年三月 東京築地魚がし会
本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝに運送して日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所圖會にのこれる日本橋の魚市 魚河岸のありしはこのあたりなり旧記によればその濫觴は遠く天正年間徳川家康の関東入国と共に摂津國西成郡佃 大和田兩村の漁夫三十餘名江戸にうつり住み幕府の膳所に供するの目的にて漁業營みしに出づその後慶長のころほひ幕府に納めし残餘の品を以てこれを一般に販売するに至り漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ市場の形態漸く整ふさらに天和貞享とすゝみて諸國各産地との取引ひろくひらけ従ってその入荷量の膨張驚くべきものありかくしてやがて明治維新の変革に堪へ大正十二年関東大震災の後をうけて京橋築地に移転せざるの止むなきにいたるまでその間じつに三百餘年魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地としてよく全國的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁榮をほしいまゝにするをえたりすなはちこゝにこの碑を建てる所以のものわれらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらずひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり
東京に 江戸のまことの しぐれかな
昭和二十九年三月
旧日本橋市場関係者一同に代わりて
日本芸術院会員 久保田万太郎 撰
日本芸術院会員 豊道慶中 書」
「東京に 江戸のまことの しぐれかな・・万太郎だ」僕が言うと嫁さんが笑った。
「この辺りは、あなたのアイドル花盛りなのねぇ」