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黒海の記憶#34/黒海の喉元に残ったローマ帝国

拠点をローマからはるか離れた黒海の根元に移してもローマ帝国はオノレを"ローマ"と呼び続けた。ラテン人の血/エストニア人の血は残滓になったが、コンスタンティノープルで使われる公用語はラテン語であり続けた。しかし・・人々が使う言葉はコイネーKoinéだった。ヘレニズム諸国/バルカン半島諸国で使われていた共用ギリシャ語である。ラテン人のいないローマでは結局のところラテン語は形骸化するしかなかったのだ。そして620年には、ついにコイネーを公用語にした。東ローマ帝国から「ローマらしさ」は暫時消えていった。
それでも人々は「ローマ人」を自称したが、言ってみればそれは「都会人」ていどのニュアンスでしかなかったのかもしれない。

ローマから継承していた政治体制や法も、そしてギリシャ正教までも、次第に勢いを失っていったのは、ローマからの伝統を保持しなければいけないとしたエーゲ海沿岸部の各都市が疲弊し、国家の人構成が大きく内陸部へ傾いたからではないか?僕はそう思う。とくにサーサーン朝ペルシアやイスラム帝国の台頭によって、アナトリア東部/エーゲ海側でのローマの勢力は極端に削がれていた。

そしてフランク王国である。ランゴバルド王国を滅ぼし西ヨーロッパの殆どを我が物にした王シャルマーニュ(カール) Karl(独), Charlemagne(仏) が、滅びたはずの「西ローマ帝国」の皇帝を自称し始めると、事態は一転した。東ローマに、我らこそ正当なり!というプライドが国内を席巻した。人々は挙って我が地こそ「ロマニアRhōmaniaローマ人の地」と唱え、我らこそ「ロメイRhōmaioiローマ人」と叫んだ。その、残り香のようにあった踏ん張りで、凋落していたローマ帝国は一時復活の兆しを見せた。しかし、結局はそのリブーストが国内の権力争いを誘発し、そこに第4回十字軍の侵攻と重なったことで、ベネチアの奸計にはまり首都コンスタンティノポリスを失う失態までに陥った。それでも何とか亡命政権だったニカイア帝国によって首都は奪還できたが、オスマン帝国の侵攻により1453年5月首都コンスタンティノポリスは陥落し、東方のローマ帝国は滅亡していった。

さて。シャルマーニュの西ローマ帝国だが。彼らは東方の地で「ローマ人を自称」する人々を終始認めようとはしなかった。ローマを僭称するエリネスHellēnesの集団と見做していた。その背景にあるのは東西に分裂したキリスト教である。正教とカトリックの対立が急速に深刻化していたためである。
しかしシャルマーニュの「西ローマ帝国」は短命だった。フランク人のゲルマン的体質がどうしてもストレスのない王権継承を至難にさせていたからだ。それでもシャルマーニュが見せたモスレムへのアンチテーゼとして王制は極めて高機能だった。極論すれば・・西欧なるものはこの時誕生したのだと言えよう。
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H.ピレンヌは書く。
「イスラームによる地中海の閉鎖とカロリング家の登場との同時性には、単なる偶然の戯れ以上のものを見ないわけにはいかない。事態の全貌を観察するならば、前者と後者の間には明瞭に結果に対する原因の関係が認められる」
「イスラームなくしては、疑いもなくフランク帝国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることはできないであろう。」とするH.ピレンヌ説は面白い。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました