日本国名の由来を追って#05/「新羅本紀」には頻繁に倭国の名前が出てくる
大化の改新以前の、日本列島にあった諸国について、客観的な史料を追うのは難しい。
中国本土に有った王朝の史書中、東海の島にある倭国について触れたものは、前出した程度しかない。そこそこ詳細にわたって触れている魏志の倭人伝も、どうも伝聞の集成としか思えないので、一級の史料とするには心もとない。漢史の中にある朝貢も、往時の皇帝の偉業を称える話の添物として2か所出てくるばかりで、文面をそのまま鵜呑みにするには??が多すぎる。
では朝鮮半島にあった国々の史書はどうだろうか。
『三国史記』がそれに充る。しかし書かれたのがAD1143年で、古史の部分にどこまで信憑性が有るかは相当疑わしい。同署は、原典として『古記』『海東古記』『三韓古記』『本国古記』『新羅古記』金大問『高僧伝』『花郎世記』などの佚書を挙げているが、全て現存しない。それらが存在したという客観的な傍証もない。その意味では日本の『記紀』なみに古史の部分は資料として扱いにくい史料なのだ。
それでも幾つか拾ってみよう。
日本と深い繋がりが有ったと思われる百済の『百済本紀』を見てみると、9か所に「倭」名前が出てくる。17代阿辛王(治世392年~404年)に3回、18代腆支王(405年~419年)に2回、20代ビ有王(427年~454年)の時に2回、そして最後の31代義慈王(641年~660年)の時に2回。
このうち見るべきは428年の記述で、隋が倭国に使者を送ったとある。その際に百済を経由したと。もちろん日本側に呼応する資料は無い。
『新羅本紀』には、かなり頻繁に倭国の名前が出てくる。百済に比して、敵対関係が主な話の内容だ。
14年 倭人兵船百余隻で海辺に侵入。
121年 倭人が東の辺境を侵す。
208年 倭人国境を侵す。
232年 倭人金城を包囲。倭兵一千が戦死。
233年 倭軍と沙道で海戦し倭軍全滅。
287年 倭人一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去る」
292年 倭兵沙道城を攻める。
294年 倭兵長峯城を攻める。
295年 王が倭国征伐を提案するが臣下の提言によって取りやめる。
346年 倭兵金城を包囲。
こうした記述が続く
注目できるのは、AD173年の部分。
「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」とある。
女王卑弥呼が新羅に遣使という記述である。もちろん日本側に呼応する史料はない。
いずれも「倭人」であり「倭国」であり「YAMATO」の音に近似するものはない。
卑彌乎の行も「倭女王」と書かれている。
では。半島内で発掘されたものはどうだろうか?
広開土王陵碑がある。414年に建立された碑で、現中国吉林)省集安市にある。
四角柱の角礫凝灰石(かくれきぎょうかいせき)で、高さ6.3メートル、幅1.3~1.9メートル。刻まれた碑文は総計1802字(1775字説もある)で、文字の大きさは平均12センチメートル平方。1880年に発見されたものである。
この碑文に「「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」とある。
391年辛卯年、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民としたある。
この広開土王陵碑は、碑文中にAD414年甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日建立とあるので、朝鮮半島側の史料としては、これが一番古いものになる。
この碑文中でも、東海の島にある王国は「倭」である。他の名前は出てこない。
この通り、大陸側の史料/発掘物にYAMATOに類似する名称は「邪馬台国」のみで、他は皆無なのだ。YAMATOなる名前が出るのは日本側の史料だけだということを、頭に止めておこう。