パリ・マルシェ歩き#24幕間/ペール・ラシェーズ墓地連邦壁で起きた銃殺
朝早く起きて、レピュブリック通りを北へ歩いた。今回借りたメゾネットのアパートの傍にBoulangerie Pâtisserie & Café Maison Le Lidec(92 Av. de la République, 75011 Paris)というパン屋がある。
https://www.facebook.com/boulangerieauxdelicesdelolo/
ここで上等なカフェオレと美味しいパンを頂いた。
「オスマン男爵はレピュブリック通りRue de la Républiqueを、レピュブリック広場Place de la Républiqueとペール・ラシェーズ墓地Cimetière du Père-Lachaiseの間に計画した。ゆっくりと南東へ下りながら走る2kmくらいの直線道だ。始点となるレピュブリック広場Place de la Républiqueを企画したのもオスマン男爵だった。ナポレオン三世にパリ大改造の命令を受けた時に起こした最初のプランの一つだ。レピュブリック広場は1854年から5年ほどかけて建造された。この時にレピュブリック通りも計画されたんだ。工事はほぼ同時に始まっている」
「そのペールなんとかという墓地に向かって作られてるの」
「20区にあるペール・ラシェーズ墓地Cimetière du Père-Lachaise」
「行ったことある?」
「ないなぁ、ずいぶん前に一人で散策したことある。まるでパリ中のお墓を集めたお墓密集地帯だ。約44ヘクタールあるそうだ。墓地としてはフランス最大らしい」
「お墓密集地帯なの?」
「モノの本によると約70,000の墓があるそうだ。もちろん現役な墓だから、今でも埋葬される人がいる」
「え~。なんでそんなところを見に行ったの?そう言えば、お昼休みに青山墓地を歩くお墓フェチの人がいたわよね。広告屋さん。あれと一緒?」
「パリ・コミューンの大きな拠点が有ったんだよ。モンマルトルの丘みたいにね。パリに隣接してきたプロイセン軍と戦うために多くの人々が此処へ集まったんだ」
「ナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になった後ね」
「ん。1871年5月だ。瓦解した第二帝政政府の残党が第三共和制政府を起した。しかしこいつらにパリの維持は任せられないということで、自衛軍が自然発生したんだ。それがパリ・コミューンになった。彼らに追われて第三共和制政府はヴェルサイユへ逃げた。ところがだ。プロイセン軍の智将ビスマルクはその第二帝政政府残党である第三共和制政府をフランス政府代表として交渉相手に選んだんだ。パリの治安を暴徒から取り戻しなさいとね」
「仲間同士で殺し合いなさい・・ということね」
「ん。第三共和制政府は勢いづいた。この時、首相はアドルフ・ティエール: アドルフ・ティエールだった」
「ティエールの壁Mur des Thiersの人?」
「ん。そうだ。人気も実力もある人だ。彼が、昨日まで敵だったプロイセン軍を背景にして、パリコミューンを攻めたんだ。1871年5月27日の夜明けだ。戦いは夕方まで続いた。もちろん私兵の集団が重装備していた第三共和制政府軍に勝てるわけはない。パリコミューンはボロ負けした。そしてその残党147名を、ティエールは墓地の南にある連邦壁の所へ並べさせたんだ」
「いやな話の進め方ね」
「ん。全員がその場で銃殺された。死体はそのまま連邦壁に放置された。腐敗に任されたんだ」
「モンマルトルの戦いのように?」
「ん。その年の夏は此処も死人の腐敗臭に塗れた」
「朝食しながら聞くような話じゃないわね。その連邦壁を見に行ったの?」
「ん。ペール・ラシェーズ墓地はモンパルナス墓地みたいに有名人のお墓も色々あるけどね、僕が一番会いたかったのは、パリコミューン銃殺現場だよ。今日はこのままレピュブリック通りを通り抜ける予定なんだ。それからペール・ラシェーズ墓地の横を走るメニルモンタン通りを歩くから、壁の反対側からだけど見ることはできるよ」
「パス!!」
「ははは」
「今朝はMarché Charonne(Boulevard de Charonne, 75011 Paris)へ行くはずだったんでしょ?」
「マルシェは、その通りの先にある」
「壁の前は急いで通るからね」
「はい」