ぎんざものがたり1-5/アーニーパイル劇場05
日本のUSO(The United Service Organizations)米慰問協会オフィスは横須賀にあった。東京宝塚接収の話がでたとき、急遽日比谷の明治会館ビルに出張所が用意されたのは、演目施設が巨大で(3000名収容)現場での即応が必須だろうと考えたからだ。担当者はJabberKolg。おしゃべりコルグという。30半ばの北欧系で「姦しい」を絵に描いたような人物だった。悪い人物ではない。しかし、USOが宝塚で公演が決まった時、スタッフは全員一致で彼を推した。「いいチャンスだ。JabberKolgを島流しにしょう」と決めたのだ。JabberKolgは嫌々単身で明治会館勤務となった。住居を帝国ホテルにしてくれたのは、せめてもの救済だったかもしれない。
明治会館のオフィスは、G2事務所の傍らである。彼は早速、G2を訪ねたが将校たちは全員雉もほろろで、彼を相手にしなかった。JabberKolgは事務所で独りふて腐れ.るだけになった。
東宝劇場がアーニーパイルとなったのは1945年12月24日。USOは初日から午後1時~午後10時の間で2回公演を開くようにとJabberKolgに指令した。演目は本土から運んできた映画と、バンドやボードビリアンの寸劇である。映画は毎日違うものを。幕間の公演も毎日違うものを用意するように命令された。
映画は毎日軍用オートバイが運んで来る。バンドは毎朝、これも楽器と共に横須賀からトラックで届けられた。
JabberKolgの仕事はそれに立ち会うこと。そして撤収時にも立ち会うことだった。
ところが寸劇だっとそうは行かない。one night onlyでない場合は大道具小道具の用意をしなれければならない。しかし日本側に英語の分かる大道具/小道具係は居なかった。もちろんJabberKolgは日本語は話せない。仕方なく日系米兵を依頼するのだが、この日本語がほとんど通じなかった。しまいには大道具が怒り始め、役者と喧嘩することが幾晩も続いた。JabberKolgはアタマを抱え込んでしまった。
正月開けたある日、いつものように役者と舞台係が喧嘩を始めて、取り繕うこともできずにJabberKolgは舞台の横の椅子で頭を抱え込んで下を向いてしまった。
「What's UP?Jabber」と声をかけられた。
びっくりして顔を上げると・・背の高い精悍な男がいた。
「ミチロー!?」
「Just call me The Lone Ranger」と言って笑った。
「ミチロー、君は日本にいたのか?」
「ああ、テイコは帰ったよ」
イトウ・テイコは伊藤道郎の実弟・伊藤祐司夫人である。著名なダンサーだった。
「テイコも日本にいたのか?」
「ああ、一昨年NYCへ帰った。俺は残っちまったんだ。で?どうすればいい?なにをトラブッってるんだ?」
そう言いながら、JabberKolgの訳を聞くまでもなく、伊藤は役者と道具係に指示した。はっきりとした格の違いがあった。険悪な雰囲気は一瞬のうちに消えた。
JabberKolgは大喜びした。
「心配するな。明日から来るぜ」伊藤が言った。
「ほんとか!ありがたい!!」
「ああ。ダイクとかいう准将の命令だ。安心しろ。これからは俺が全部解決する」
「ほんとか?!」JabberKolgは飛び上がって喜んだ。
「それより俺の方がラッキーだ。現場のUSOが知り合いなんて、まったく僥倖だぜ」