悠久のローヌ河を見つめて04/ワインの道
酒呑みはローヌ川を三つに分ける。リヨンより北をジュラ/サヴォア。アヴィニョンより南をプロヴァンス。そしてリヨンからアヴィニョンまでの間をローヌと。
ジュラ/サヴォアは白が多く。プロヴァンスはロゼと白。そしてローヌは赤・・というのが大分類だ。
大きく俯瞰すると、リヨンから二つに別れる、もうひとつの川筋であるソーヌ川を北上するなら、ボージョレーとブルゴーニュが立ち現われてくる。
何れも酒呑みには大事な歴史の街道だ。
前述件のファンダーがディナーのときに選んだ白は、ジュラのシャトー・シャロンだった。アルプスの山腹に眠る、もともと女子修道院だったところが作っているワインだ。葡萄の品種は普通にシャルドネだが、きわめて個性的でハマる人はハマる。こうした武骨な白に、なかなか日本でお目にかかることがないのは、とても残念だと思う。
さて。このジュラ/サヴォアという地域だが、フランスの中でも際立って特異な文化圏である。フランス的というより異民族的なのだ。スイスとの国境が近いせい・・でもないように思うのは僕だけだろうか。僕にはそれがきっと、この辺りがガリアとローマ、そしてゲルマンとガリアを結ぶ文化の回廊だったせいだったように思われるのだ。険しい峰々がローマ人の定着を長い間阻んだのではないか。なんとも古いケルトの香りを感じてしまう。
ジュラ/サヴォアを含む同地アルプス山塊へ最初に入ったのは、北方から民ガリア人(ケルト人)だった。
かなり早い時期からだったようだ。
何故あれほど山深い所までケルト人が入り込んでいったかと云うと、"塩"を求めてだった。アルプスは温泉が多い。その大半が単純塩泉か硫黄塩泉だ。この塩泉が、きわめて重要な塩の採取場所だったのだ。
なにしろ海まではとても遠い。なのでガリア人たちは此の地で塩泉から塩田を作り塩を採取していた。そしてガリア人の部族間でコレを物々交換に利用していた。そのため温泉が湧くところには幾つもガリア人の部落が、紀元前から出来ていたのである。
おそらく最初は、錫鉱を求めてイタリア半島根元から/トリノからアルプスの険しい峠を越えて入り込んでいったローマ人が、すでに採掘していた彼らと出会い、自分たちが掘るのではなく彼らから「錫鉱を買う」ということを始めたに違いない。そして物々交換のためにローマ人はワインを持ちこんだ。その証拠はトリノから狭隘なアルプスを登る峠道沿いに、ワインを入れて運ぶアンフォラ(陶器)の破片の量の多さである。アンフォラは壊れやすい。そのため運搬中に相当壊れた。その破片が、無数に散らばっているのだ。
このトリノとシャンベリーの間を走る経路は、現在でも重要な交通路になっている。
そしてその交易地の真ん中の谷間を流れる川が・・後代ローヌ川と呼ばれる川が、実は地中海まで繋がっていることを発見すると、錫とワインの搬送は速やかに水路利用へ切り替わって行ったのだろう。紀元前500年頃の話である。
青銅時代が終わるまで。そのラインは重要な産業ラインだったのだ。