黒海の記憶#47/形骸化するビザンチンによる支配#03
黒海西海岸をブルガリア王国に奪われたヴィザンチン帝国は、ほとんど同時期に黒海北海岸/黒海北のキプチャク草原をカスピ海北の草原を、チェネグPechenegsに握られている。
このペチェネグだが、おそらく単一民族ではない。複数の部族同盟である。彼らをヴィザンツ人はペチェネグPechenegと総称していた。しかし東よりハザール人とオグズ人が侵攻し、ペチェネグと呼ばれた複合部族は、すでに西側へ移動していたフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)やスラヴ系の農耕民ウールィチ人、ティーヴェルツィ人と黒海北西部で抗争/融合を繰り返し、最終的には拡散し融合して消えていく。
こうして7世紀くらいから黒海北岸と東岸はハザール人の支配下に入っていった。
このハザール人の出自も定かでない。コーカサス山脈の北側の平原から出た人々だが、彼らも単一民族ではないと僕は思う。
彼らの名前は早くからペルシャとアラブの著作家には知られており、北から侵攻する遊牧民を通称してハザール人と名付けていた。彼らはノアの息子の一人ヤペテの子孫であると記されている。この「ヤペテの末裔」という系譜は、一般的にこの地域の部族に受け入れており、彼ら自身もそう自称していたが言語的にはテュルク系だった。そのためビザンツの著作家は、彼らをTourkoi(トゥルコイ)と呼んでいる。その系譜が現在のTourk(トルコ)に繋がれているのだ。
ハザール人は、それまでの騎馬半農部族に比して、遥かに"商人の血"を持った人々だった。その活動範囲は、ヴォルガ川からクリミアに至るもので、カスピ海と黒海を結ぶ太い交易路を開いた。ヴォルガ川とドン川沿いのハザールの諸都市は、ヨーロッパとユーラシアの商人が塩・・毛皮・皮革・蜂蜜・奴隷などを交換する重要な商業拠点になっていった。
しかし、ビザンツ人はハザール人との間に安定した協力関係を築くことはなかった。 アラブやペルシア、ペチェネグという共通の敵に対して協働することはあっても、決して心を許すことはなかった。なぜなら後継者争いを潜在的に背負ったビザンチン帝国は、その勢力争いの背景に彼らが暗躍することが多かったからだ。その内政干渉の塗炭をビザンツ人は忘れなかった。
もっとも有名な事件は、695年の皇帝ユスティニアノス二世の追放である。帝位を追われた流刑されたクリミア半島で同地のハザールの支援を受け、帝位を取り返している。ユスティニアノス二世は支援者となった可汗の妹テオドラを妻として迎えいれている。彼女はビザンツにおける最初の外国人皇后となっている。
そのハザールの隆盛を、森深い北部から羨望の眼差しで見つめ虎視眈々と覇権を狙っていた人々がいた、ルーシ人である。最初の千年紀の終わり、北から台頭してきたルーシ人はコーカサス北部の主要なハザールの要塞を陥落させ、制圧し、最後は完膚なまでにハザール王国を滅ぼしてしまった。