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勝鬨新古細工#04/勝鬨梺呑み屋横丁

ウチのオフクロは父が亡くなった後は銀座でホステスを務めていた。
オフクロが店を持ったのは僕が中学2年の時だ。
勝どきの南詰めにあった飲み屋横丁にあった6坪くらいの2階建て陋屋で、初めて見に行った時、2階の畳にペンペン草が生えててびっくりした記憶がある。僕はそんなとこに住むのは嫌だったけど、オフクロはえらい乗り気で、相当手銭を突っ込んで大改築した。・・たしか1964年の夏休みだったと思う。東京オリンピックのあった年だ。
最初はBarだった。通いのバーテンが1人。女の子が2人。それとオフクロ。僕はこの陋屋から学校へ通った。
高校三年生の時に家出した。
学校にはそのまま通ったし、大学にも入学したけど、勝どきの家にはそれきり戻らなかった。そのまま20年近く経った。大学時代から勝どきへ行くのは年に何度もなかった。仲が悪かったわけではない。行く理由がなかっただけだ。
ベトナムへ行ったことも、NYCへ渡ったことも、母には報告しなかった。
ふらりと勝どきに寄ったときに母が「いま何処にいるんだい?」と聞かれたときに返事するだけだった。「この間までニューヨークにいた」と僕が言っても、母はへぇというだけだった。
60になったころ母がBarを閉めた。売り上げが落ち始めると、Barに見切りをつけて一人で出来る小料理屋に店を替えたのだ。僕がそのことを知ったのは何年も後で、ふっと戻ったとき、古い漆喰で中が覗けない重い木製ドアだった店が、がらりと和風の格子戸と暖簾の店に変わっていたので本当にびっくりした。
いそいで暖簾をくぐると・・
「おや、お帰り」
いつもドレスか着物姿だった母が割烹着を着て、カウンターの向こうにいた。それが妙にハマっていて、なんとも不思議な感じだった。
「店、いじくったんだ?」僕が言うと
「そうなんだよ。人を使う商売はもうムリだからね。一人で出来るようにしたのよ。」
「ふうん。」カウンターに座って僕が言うと、前にさっとビールを出してくれた。
「いま何処にいるんだい?」
その店が根こそぎ再開発で無くなったのが1994年。1995年に勝どき交差点のところに建ったビルに入ったのが1995年。そのまま10年近く、そこで母は1人で店を守った。僕は相変わらず結婚した後も彷徨を続けていたから、母のところには殆ど顔を出さなかった。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました