夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩4-1/シトー修道院#01
https://www.youtube.com/watch?v=tqOEBJUmsPk
VTCが走るオートルート A6/Autoroute française A6はパリ南東部からソーヌ川谷のリヨンへと結ぶ有料高速道路である。
M.Jのクルマは快適に走っている。
「そろそろコート・ド・ボーヌに入るよ」
「なんかフランスらしくない道路ね」嫁さんが言った。
「自動車専用道路で何よりも機能一番だ」
「機能が一番って・・フランスらしくないと思うわ」
「ところで・・今回、珍しくクリュニーとは?話をしなかったわね。わたしから聞いていい?クリュニーって・・クリュニー修道院の創始者がクリュニーという名前なの?それでクリュニーというの?」
「いや、クリュニーは土地の名前だ。紀元前からあったらしい。Dictionnaire de la langue gauloiseによると"Cluniacus"の初出は835年だそうだ。
https://www.amazon.fr/Dictionnaire-langue-gauloise-Xavier-Delamarre/dp/2877726312
clunia
はガリア語で草原のことだ。これに地名を表す言葉ako/cusを付けたのがCluniacusだ」
「草原!」
「ポジョーレーの山脈が崩れて広がった草原なんだろうな。」
「なんとなくイメージできるわ」
「そこにガリアが要塞が作ったんだ。アキテーヌ公ギヨーム1世Guillaume Ier d'Aquitaineがそれを我が物にして別荘にしていた。それを利用して910年に修道院を始めたんだ。それが最初」
「ふうん。聖ベネディクトが修道院長じゃないわよね。二百年くらい時代が違うものねぇ~」
「ベルノン(910-926)という人だ。ギヨーム1世が彼を修道院長に指定した。915年だ。ベルノンはボーム修道院とジニー修道院を手掛けていた人でクリュニー修道院の根本を作った人だよ。なかなかのやり手だったらしい。そのベルノンが927年にボーム修道院で亡くなってね、クリュニー二代目修道院長はオドという人になった。ギヨーム1世の直令だ」
「ギヨーム一世の部下だったの?」
「当時、修道院はね、領主が個人的に建てたものが多かった。西暦900年代だろ?キリスト復活から1000年目で、黙示録到来を人々が恐れていたときだ。金持たちは自分が天国へ行くために、修道士に代祷してもらってたんだよ。だから金持ちはみんな自領に修道院を置いていた。ギヨーム1世の代祷を請け負っていたのがクリュニー修道院だ」
「・・ということは、クリュニーより古い修道院があっわけね」
「ん。サン・ヴィクトール修道院が最古だと云われてる。マルセイユにある。415年だ」
「500年も前!」
キリストの教えを実践するために人里離れたところへ隠棲するという方法を考えたのはエジプトだった。隠修士hermitという。最初に知られた隠修士はテーベのパウロという人だった。彼は、砂漠や原野の中で孤立して神との対話を求めた隠修士の始祖だと言われている。しかし、まったく孤独のまま生きるのは至難だ。生死が直結している。それで、少しずつ共生する隠修士が集まるようになって、互いに守りあうような形に育てたのはパコミオスという人だった。彼こそ初期(318-323)修道院の創始者だったと云えよう。そして、それをシステムとして整えたのが聖ベネディクトだった。ベネディクト以降の修道院は、原則的に彼のスタイルを踏襲している。
「西ローマ帝国崩落で、キリスト教は生き残りをかけてガリアの地へ広がった・・面白いことに、先にガリアの地へ広がったゲルマン人は、森の中で黙々と畑を開墾し朝晩祈祷する異様な風体の修道士たちについて、何か不思議な能力を持つ奴らだ・・として考えていたようなんだ。不気味な畏れを感じていたのかもしれない。・・もしかすると、修道士たちは臨機応変に色々奇跡をやって見せたのかもしれないな。シルクハットからウサギだしたり・・」
「シルクハットその頃ないでしょ!」
「クローヴィスがローマ教会に帰依して、フランク族が神の兵としてユーラシアを平定し始めると、この頃から次第に修道院はガリア人相手の代祷者になっていくんだよ」
「・・さっき言ってた開墾としての修道士は判るけど、代祷する者としての修道士って・・そんなに大事だったのかしら?」
「云ってみれば保険ビジネスだから一定のニーズはそれなりに有ったろうな。金持ち相手の精神安定剤だ。『修道院へ寄付すると、どんなことしたって自分と家族それと祖先全員を救えちゃぅ!グランドセール!!いまならお札も付いてきます♪』というプロパガンダだよ。これに田舎から出てきた貴族たちがウマウマと飲み込まれたというわけさ」
「あなたの話を聞いてると、なにかお金のことしか考えてないようにしかみえないわ。修道院ってそんなものだったの?」
「違う。修道士は真摯に土地や財産を寄進してくれた貴族のために日々祈りを捧げたんだ。代祷にごまかしはない。そこに迷いも矛盾も迎合もない」
「ん~よくわからないわ」
「こうした修道院が紡ぎあげた"システムの体系化"が、12世紀初頭になると高度化/精緻化して、最盛期には、およそ2000以上の修道院を欧州各地に生み出すほどになったんだよ。その中で最も隆盛を誇ったのがクリュニー修道会なんだ。クリュニーは200年余りかけて、まさに帝国ともいうべき存在になっていったわけだ。・・・ところがだな」
「あ・でた。ところが」
「この祈祷と代祷のシステム化、そして壮大さ華麗さ重厚さが、いつのまにかクリュニー修道院の存在意義になっちまったんだ。写本を作ったり讃美歌書いたり教導書を作ったり祈祷の様式を儀式として巧緻に作り上げたりするのが神に使える者の仕事になってしまったんだ。
結果として、もう一つの聖ベネディクトが謳った心・・勤労と開墾はおざなりにされるようになっちまったんだ。そんなもんは農民や雇ってやらせればいい。それこそ一般大衆のための雇用創出だ・・とね」
「確かにそうね。お金を儲けて、そのお金でたくさんの人の仕事を産み出す。・・たしかに間違った話には聞こえないわ」
「ん。でもこう思う人たちが出てきた。なぜ私は"修道士という道"を選んだのか?本来、我々が進むべき道は・・未開の地を耕し、神の糧を注ぎ込み、それを花開かせ、遍く神の愛を愛で、祈ることだろう・・と。勤労・開墾・祈り・・だろうと」
「聖ベネディクトの戒律ね」
「ん。クリュニー修道院がスタンダートにしてしまった華麗/荘厳/重厚を全否定した人々が登場したんだょ。それがシトー派だ」
「ああ、それでようやくシトー会が出てくるのね。そろそろシトーの修道院に着く位の長ぁいソモソモ話よ」
「すいません」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました