小説特殊慰安施設協会#40/千疋屋の闇
林田係長は日本橋に麻雀屋を開いていた。ボーイ間のトラブルを回避するために、林田の指示でボーイたちは、コソコソと裏口にタムロする闇屋に売るのではなく、半ば会社公認でその麻雀屋に持ち込んで現金化するようになったのだが・・この処置が第八軍軍用娯楽施設課の耳に入ってしまった。米軍として見逃すことはできない。林田の店に闇取引所としてMPが入ってしまった。大慌てしたのは宮沢理事長である。宮沢は珍しく林譲を監督不行き届きと叱咤した。林譲は何の抗弁も出来なかった。良かれと思ったことが裏目にでたのだ。
「ダンサーたちの風紀管理が必要だな。」宮沢が言った。
宮沢は千鶴子がダンサーと本部事務を兼業していることを知っていたが、そのことには一言も触れなかった。
数日後、依田梅子という50代の女性が「教養係」として雇用された。依田は米国での生活が長い。自分でも何軒かのキャバレーを経営した経験も有る行動的な人だった。依田は、宮沢から頼みを快諾すると、ダンサーたちの管理をすぐさま実行した。今まで自由だった外出と帰宅時間は制限され、寮での面会も単独では許可されなくなった。監督者付きとなった。ダンサーたちは口々に不平を言ったが、依田に直接不満を言う者はなかった。依田は、ダンサーに文句を言わせないオーラを持った女性だったのだ。
あるとき、林はタイプの途中、ふと手を止めて後ろの席の千鶴子に声をかけたことがある。
「どうですか?依田風紀係は?」
千鶴子は言い難そうに応えた。
「・・はい。女の子たちの朝帰りはなくなりました。」
「・・そうですが。」林譲はそれ以上聞かなかった。
もし、この時。林譲が千鶴子の態度がおかしいことにことに気が付けば・・千鶴子の人生は大きく変わったかもしれない。千鶴子はダンサーの間で村八分になりはじめていたのだ。
その大きな原因は、何ヶ所か増えたダンサー寮と、千鶴子がいる宮川寮との間に格差が出ていたためだ。就業後の食事である。ダンサー寮の傍には、腹をすかして戻るダンサーのために何処も幾つの露店が出ていた。露店は全て新橋マーケットから来たものだった。ある意味、R.A.A.のダンサー寮は新橋マーケットの縄張りになっていたのだ。その新橋マーケットに、エビスヤ・ビアホールで働いていたゲンが売れ残ったビールや食材を新橋マーケットに売っていることは皆が知っていた。そしてゲンが、千鶴子が間借りしていた家の倅であることも皆が知っていた。
「どうせあの女が上前撥ねているンだろう」ダンサーたちはそう噂していた。
それと同時に寮の前に出る露店の数も宮川が圧倒的に多かったことも、他の寮のダンサーから不興をかった。一番最初に出来た寮である。常連のダンサーのために最初から出ていた露店はそのまま残り、それに新しい露店が出るようになった結果なのだが・・他寮のダンサーたちはこれを曲解した。「自分ばっかしがいい思いをしてる」ダンサーたちは言い合った。
その悪評は、もちろん千鶴子の耳にも入っていた。しかし何も出来なかった。まったく自分があずかり知らないところで立っている悪評だ。千鶴子は戸惑うばかりだった。
寮へ引越しする前夜、小美世がゲンに言った言葉「たいていの人はね、誰かが自分より良い思いをするのは嫌いなもんだからね。お仲間に恨みを買わないように気配りをするんだよ。」の重さを嫌と云うほど感じていた。まさにその状況に千鶴子は陥っていたのである。
それが一挙に爆発したのは、千匹屋キャバレーでだった。
ほとんど毎夜のようにやって来るワッツ中尉が千鶴子を独占していたのだが、それでも彼が来ないときは、他の兵隊たちが千鶴子を奪い合う。それをダンサーたちは苦々しく思っていた。いつもは自分を指名する兵隊が、千鶴子が開いていると、目の色を変えて千鶴子のほうへ行ってしまうのだ。・・たしかに、千鶴子は群を抜いた美人だった。
その夜、千鶴子を巡って数人の兵隊が口論になり、殴り合いになってしまったのだ。すぐさまMPが入り、兵隊は検挙されたが、店はその場で営業停止になった。他の兵隊たちはブーイングしながら店を出て行った。店にはオロオロするダンサーたちとボーイだけが残った。
「あんたのせいよ!」ダンサーの一人が叫んだ。「あなたがスカしてるからよ!」
「そうよ!そうよ!えらそうにしてるんじゃないわよ!」何人ものダンサーが叫んだ。 千鶴子は呆然とした。
「静かに!」店長を兼ねていた山崎が、その声を制した。ホールは一瞬静かになった。「個人攻撃をするんじゃない!みんな仲間じゃないか!」
「・・仲間じゃないわよ。そいつは本部から回されたイヌよ」誰かが言った。
「誰だ!誰が言った。出て来い!」山崎が怒鳴った。 ホールは静かなままだった。
その夜、店はそのまま閉店となった。千鶴子は宮川寮のダンサーたちと共に沈鬱と寮に戻った。
翌日、山崎は林譲に店内で米兵の乱闘が有ったことを報告しているが、その原因が千鶴子だったことは報告しなかった。ここでもまた、千鶴子は不運だった。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました