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東京島嶼まぼろし散歩#28/伊豆諸島08

レストランの帰りは、酔い覚ましと腹ごなしで歩くつもりだったが、ついついTAXIを呼んでもらった、ついでにその方に明日のTAXIもお願いした。
「どのくらいごりようになられますか?」と聞かれた。
「えっと、湯浜遺跡を見に行きたいのと八丈島歴史民族資料館に行きたいんです。黄八丈染元も見学したいです。あとは、ランチタイムも」
「4時間くらいですかねぇ。黄八丈染元はどちらか希望がございますか?}
「ないです」
「でしたら黄八丈めゆ工房さんがいいですよ。予約を入れておきましょう」
「ありがとうございます。湯浜遺跡はですね。もう全部埋め戻されているから、看板があるだけですよ。それでもいいですか?」
「かまいません」
「八丈島歴史民族資料館は、いま八丈支庁に移ったんですが、昔の八丈島歴史民俗資料館も外からはご覧になれますよ」
「それもおねがいします。
「かしこまりました」
な、感じでホテルに着くまでの数分間で明日の予定が出来てしまった。
へやにもどると嫁さんが
「ずいぶんお手軽に周遊コースを作っちゃったわね」と言った。
まあ、それはそれでいいでしょ。
「でも海は見たい。南の海を」
「海だけでいいの? スンダランドから来た人々の香りは海しか残っていない」
「八丈の庁舎に資料館があるでしょ?」
「ん。たのしみだ。」

そして翌日。朝食をしながら昨日の続きを始めた。
「日本が、南太平洋で続く敗戦に追われて、否応なく本土決戦を考え始めたのは1944年2月からだった。トラック諸島方面が米軍により空撃された以降である。しかし本土決戦を意図したとき、その基礎になるべき兵要地誌が、沖縄を含むすべての諸島とも、あまりにも貧弱だった。
「兵用地誌」とは陸軍省が中心となって編集した官撰地誌である。毎年、新しく編纂されていたが、諸島部については重要視されていなかった。『小笠原群島並八丈島及属島兵要地誌』が出されたのも昭和7年が最後だった。
防衛庁防衛研修所戦史室のレポートを見ると、八丈島を含む伊豆諸島方面の防衛については、「昭和十八[1943]年六月まで、伊豆諸島には防空監視関係以外の防衛(警備)に任ずる陸軍部隊は皆無の状況であった」とある。
1938年7月に創設された東部軍司令部の資料には「同年6月25日、特設警備隊が設置された」とある。そして同年6月25日、特設警備部隊が設置された。同時に八丈島には特設警備第十九中隊が編成された。
この特設警備隊だが・・構成要員は地元所在の予備役そして国民兵役人員で構成されている。訓練を受けた軍人ではない。職務は一般市民に従事させていた。
そして1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦である。
最初、日本は快進撃していた。体制が整うまで、米軍(連合軍)はもたついていた。それが拮抗し反転したのは1943年あたりからだ。
どうしても日本軍が勝てなくなったのはその年の夏くらいからだ。そのあたりから「古い体制の軍隊組織」と「最新の体制を持つ軍隊組織」の戦いになった。そう進めば精神力で勝つやり方はジリ貧になるしかない。米軍はじわじわと南方戦線を日本列島に向けて勝ち続けた。
1944年2月17日、米軍はトラック諸島を空爆。戦いは米軍の一方的勝利で終わった。
グアム・サイパンが堕ちれば、小笠原列島はすぐそばだ。
この年、5月2日。大本営陸軍部は「南西諸島台湾及伊豆諸方面作戦ニ関スル陸海軍中央協定」を制定した。その制定で伊豆諸島の陸上防衛は陸軍が担任。航空に関しては、大島・新島は陸軍、八丈島は海軍が受け持った。
6月15日、米軍はサイパン島に上陸。三週間後の7月7日、日本軍は玉砕した。戦線は小笠原に移った。
8月4日、小磯国昭首相が「国民総武装」を閣議決定した。この時からほど決戦のための竹槍訓練が始まった。
大本営は硫黄島に国の命をかけた。絶対に死守せよという命令を出した。そして文字通り国を守るために命を捧げた人々2万1千人を大本営は硫黄島へ送り込んだ。小笠原兵団第109師団、混成第二旅団、第27航空戦隊、軍属、少年兵である。
米軍が硫黄島まで迫ったのは翌年2月。開戦は1945年2月9日から始まった。そして主要な戦闘は3月17日で終わった。戦死者は2万129名だった。
戦いは父島・母島に移った。しかし米軍は上陸しなかった。あまりにも凄惨な死闘となった硫黄島の再来を恐れて、空爆と感情からの砲撃に作戦を替えたのである。
しかし沖縄戦は上陸を想定していた。沖縄を落としその後九州へ侵攻する計画だったからである。
そのため、沖縄は硫黄島並みの凄惨な戦いになった。米軍は45年3月26日に沖縄本島の西に浮かぶ慶良間諸島に上陸。4月1日には沖縄本島中部の西海岸に上陸している。
併せて米軍B29の日本本土空爆が熾烈を極めた。1945年1月20日、大本営陸軍部が「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定。ここに「近ク小笠原諸島方面ニ敵空擊基地ノ進出」「関東地方、九州及南鮮方面ニ於テ先ツ速ニ完整ス」とある。
これに準じて1945年6月より帝都防衛のために東京防衛軍を編制した。そして第321師団がその月より伊豆大島の守備に充った。

このうち独立歩兵第670大隊が、三宅島の防衛に移転した。
1945年8月6日広島原爆。8月9日長崎原爆。そして8月15日、日本は無条件降伏した。
「重い話ね」
「ん。抜本の部分で踏み違えたままの進行だったとしか言いようがないな。どうやっても良い方法に進まないのに、何も替えられなかった。ダメになる方法をそのまま進めることしかしなかった・・ということだ」
「替えられたのかしら?」
「替えられるのが‥替えて見せるのが指導者だ」
「でもそれはあなたの云う天命を負った指導者なんでしょ?」「・・たしかに」

朝食を終えてロビーで昨日の運転手さんを待っていると、予定より早く来てくれた。
クルマは昨日と違うレクサスだった。おや!と思った。
「順番ですが、まず湯浜遺跡からでよろしいですか?」と言われた。
「OKです」
「ここからは10kmくらいあります。島の反対側なんです」
「よろしくおねがいします。」
クルマが走り始めると、嫁さんが、さっき話の続きを聞き始めた。

「伊豆諸島にアメリカ軍は上陸しなかったの?」
「しなかった。小笠原でも硫黄島以外は上陸して戦わなかった。関東周辺の海域は完全に米軍が掌握していたから、無用な自国兵士の損耗を嫌ったんだろうな。その気になれば、6月には米軍が東京に直接上陸することは可能になっていた。実際にマッカーサーの日本ほど上陸作戦には房総半島への侵攻がリストとして載っていたんだよ」
「でも来なかったの?どうして?」
「どうしてもやりたかった実験があったんだ。日本が手を上げる前にやりたかった実験だ」
「・・原爆?」
「そうだ。他国ではできない・・白人相手ではできない究極兵器の実験だ。
・・しかし‥日本はなぜトリニティ実験を察知できなかったんだろう? 日本の諜報力がなぜそこに至らなかったんだろう。インテリジェンスの致命的な稚拙さだ」
「トリニティ実験?」
「1945年7月16日、米国ニューメキシコ州で行われた人類初の核実験だよ。これの成功がなかったらトルーマンはスターリンに強い態度は取らなかったろう。彼の強気を決定的に裏付けたのが広島と長崎に落とされたLittle BoyとFat Manだ。Fat Manはニューメキシコ州で使用された原爆と同じものだった。もし、日本がトリニティ実験のことを知っていたら・・そしてそれをトルーマンが利用しようとしていることを知っていたら・・この悩ましい可能性は"もし"が多すぎる」


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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました