蒋経国という生き方#09/高齢化する支配層
50年代、恐怖政治を敷きながらも、蒋経国はもうひとつの深刻な問題を抱え込んでいた。
それは国民兵の高齢化である。蒋介石とともに故郷を捨て、大陸を捨てた兵士たちの多くは、そろそろ退役年齢に達しようとしていた。しかし彼らに還る地は、台湾島にない。そのうえ殆どが農民/貧民だったため、退役後の仕事も望めなかった。
蒋経国はアメリカへ除隊兵士のための経済援助を乞うた。アメリカは国民軍兵士の削減を条件に之を請けた。1956年4月、蒋経国は、その援助を元に退輔会なる組織を作り、退役将兵を雇用する事業を展開した。
「台湾山脈を東西に貫く東西横貫公路というのがあるんだが、これは蒋経国/退輔会が作った道路だ。この道路は台湾経済の大動脈になるんだが、工事は難航に続く難航だった。沢山の退役兵士を投入したが、事故による死亡者も大量に出たんだよ。工事は完成まで3年10ヶ月かかったが、蒋経国は何度も現場に赴いている。そして退役兵士とともにモッソ飯を喰らい工事現場に野宿した。
そのへんがエリート然とした父・蒋介石との圧倒的な違いだな。彼は、何の努力もなく現場の人々ともに生きられる人物だったんだ。・・その背景にはモスクワ時代の辛酸があるんだろうな。こうして蒋経国は次第に巷の人々から強い支持を得るようになっていくんだ。」
「でも特務機関という顔も持っていたんでしょ?」
「そうだ。彼を二重人格と揶揄する者もいる。しかし鬼子母神は啼きながら旅人を喰らったんだ。その本当の顔は子を慈しむ母だ。蒋経国もガラッパチな大騒ぎが好きな、ご機嫌オッサンだったんだよ。本性はね。彼は固陋に生きることを厭わない人だった。後年、蒋経国は台湾諸地方をくまなく訪問して歩くんだが、そのときの彼の格好はジャンパーに野球帽だった。彼はその姿で予告なくふらっと市井に入り込み、町の人々と話したり一緒に食事をしたり飲んだりした。
このジャンパーに野球帽というスタイルは、台湾の政治家の地方巡行のユニフォームになった。」
「・・話を聞いてると、蒋経国という人。幸せだったのか不幸だったのか・・わからなくなるわ。」
「彼はオノレの境涯ですべきことをした男だ。彼がその道に生きたかった否か・・それは彼にしか分からない。しかしやるべきことは全うした人物だった。偉大な人だ。・・しかし」
「しかし?」
「彼の偉大さに付き添ってくれたのは夫人ファイナだけだった。子供たちは・・巷の評判に負けた。彼の影に押し潰された。」
「・・そう。でも奥さんは彼に諾を出し続けてくれたのね。」
「うん。それが蒋経国最大の心の拠り所だったろうな。
ファイナは蒋経国死後も自宅としていた台北・中山区大直にあった七海寓所に住み続け、此処で2004年まで生きている。いま七海寓所は『経国七海文化園区』という名前で公園になっている。蒋経国は、自分の名前をつけたランドマーク/モニュメントを徹底的に嫌った人だったんでね。あそこは数少ない彼を偲ぶ地だよ。」
1965年、台湾の表の顔・陳誠が死去した。蒋介石は70代後半。本土回帰の妄念だけの老人になっていた。
「大陸反攻は、蒋介石政府の存在意義だったからね。小競り合いは1960年代も続いていた。
しかし大規模な大陸反攻戦は不可能だったんだ。結局のところ本質の部分で蒋介石政権はアメリカのの虎の衣を借りた傀儡政権だったからね、アメリカが対ソ政策として毛沢東共産党の存在意義を見てる限り、彼らから全面的な支援を受けることは叶わぬ願いだった。」
1965年2月7日。北ベトナムへの北爆が始まる。ベトナムにおける対共産党戦線はフランスからアメリカへ引き継がれた。
「蒋介石はこれを朝鮮戦争のときと同ぐ、神は我に味方すと見たのかもしれない。彼は大規模な大陸反攻を命令した。田単作戦と呼ばれる戦いだ。1965年7月のことだ。アメリカはその独断行動を批判し蒋介石政府への経済援助をすぐさま停止した。そのうえ田単作戦そのものも散々な結果に終わった。兵力の差は歴然だった。大規模な戦いを仕掛けることそのものが老耄の業だったんだ。」
「蒋経国はどう思ったのかしら?」
「父の意思に従うしかなかったんだろうな。表の顔・陳誠を失い蒋経国は実質的なナンバー2の立場に有った。たしかに大陸反攻という看板を下ろせば、台湾の蒋介石独裁統治は正当性を失う。しかし無為な大陸反攻は寝た子を起こすことでしかない。蒋経国はそれを正鵠に理解していたに違いないと僕は思う。そんなことに人員と金を使うなら、彼は台湾島内の経済政策を充実させたかったろう」
その蒋介石が地方視察のとき交通事故に遭った。1969年だ。これが大きな曲がり角になった。翌年、蒋経国は陸海空の総司令官に対中国軍事作戦の見直しを指示した。これが大陸への反撃姿勢の見直しになった。
「資料は残っていない。それでも、この陸海空の総司令官への指示は、父・蒋介石へ知らされてなかったと僕は思う。蒋経国が初めて示した父・蒋介石の意思とは違う命令だったからな。これ以上無駄な支出も無駄なお騒がせもしたくない・・これがナンバー2としての正しい判断だが、耄碌して我執だけの父・蒋介石にそのロジックは通じなかっただろう・・僕はそう思う。」
「老いるということ・・は・・」
「老いるということと、老けるということは違う。きれいに老いることは難しい。蒋介石ほどの駿馬でも難しい。毛沢東も出来なかった。」
「出来た人はいるの?」
「フィデルは出来た。」
「だれ?それ・・」
「フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス。キューバの独裁者だ。フランシスコ・フランコ・バアモンデも出来た。スペインの独裁者だ。
敢えて言うなら・・こうした独裁者と共に語るのは不敬に充るが・・昭和天皇も美しく老いた方だ。陛下に老耄の言はない。・・難しいが老けずに老いることは可能なんだよ。」
蒋介石は1975年4月5日に亡くなった。87歳だった。
「1971年。台湾・中華民国は国連を追い出される。そして翌年ニクソンが訪中する。そしてその翌年アメリカはベトナム戦争から手を引く。国家としての蒋介石・国民政府/中華民国を承認する国は22か国まで減った。蒋介石/蒋経国政権は窮地に陥っていったんだ。」
「日本は?」
「日本も国交断絶した。」
「・・そう」
「しかしね、台湾にとって70年代は高度経済成長の時代だったんだよ。蒋経国は、父の本土への妄執が威力を失い始めると、対中軍事費を大幅に削減して、これを内需拡大に充当したんだ。そのへんの変わり身の素早さは蒋経国が並みの独裁者と違うところだ。
実はね、50年代60年代で育ってきた資本/人心が蒋介石/蒋経国政権危うしと見るや海外へ逃避するケースが多出したんだ。離れていく人心を内務機関時代のような強圧で押し留めることは出来ない。蒋経国は自らの支配の存在意義を賭けて内需拡大を試みたんだ。」
1973年11月、産業基盤の整備と重化学工業の振興を目的とし、九項目の国家プロジェクトが発表された。南北高速道路の建設/西部縦貫鉄道の電化/北回り鉄道の敷設/桃園国際空港の建設/台中港の築港/蘇澳港の拡張/中国鉄鋼の創設/中国造船の創設/石油化学プラントの建設。そしてこれに原子力発電所三ヵ所を含む発電所建設が加えられ、十大建設と呼ばれるプロジェクトである。
「蒋経国の十大建設がもたらした経済成長は『台湾の奇跡』とまで言われた。中国が、老害・毛沢東が起こした文化大革命という混乱から立ち戻れずに、経済停滞へ陥っていたことに比べても、蒋経国の判断は見事だったと言えるね。軍事では中国共産党には勝てなかったが、経済では明らかに台湾のほうが先を行ったんだ。
もうひとつ。大きな変革を蒋経国は試みた。それは台湾出身者(本省人)の抜擢だ。李登輝を代表とする若手の優秀な本省人青年を積極的に政権へ取り込んでいったんだ。父・蒋介石は台湾出身者を殆ど登用しなかった。例外的は『半山』と呼ばれた人々だけだ。」
「半山?」
「半山仔とも言う、日本統治時代に大陸へ渡って、戦後に蒋介石政府と共に台湾へ戻ってきた台湾人のことだよ。」
「半山・・ねぇ。なんとなく嫌な響きねぇ」
「蒋介石と共に台湾へ渡ってきた所謂外省人は、台湾の中では結局のところマイノリティだ。そんな人々が政権を握り続けることは無理だ。老いていけば余計に無理だ。その子らを登用するとしても限界はある。リアルに現実を蒋経国は受け入れたんだよ。
その頃から蒋経国は、週末になると野球帽とジャンパーという格好で各地へ視察旅行へ行くようになった。視察といっても大仰なものではない、本当に市井にふらりと出かけるものだったんだ。蒋経国は誰とでも気軽に話し共に食事し、子供らを抱きかかえた。蒋経国が凄いのは、それが演出ではなかったことだ。彼は市井を愛し、国が彼らの上に成り立っていることを知っていたことなんだ。・・さいしょに言ったけど、彼が今でも台湾で一番人気がある政治家なのは、その人柄からだ。」
「内務機関が彼の元に動いていたことをみんな知っていたんでしょ?」
「ん。もちろん。しかし市井で彼と話した人々は、大声で哄笑する明るいオヤジをそこに見た。闇の顔は見ていない。」
「でも・・特務機関に親兄弟を殺された人は、市井にいっぱい居たんでしょう?恨んでいる人だっていっぱい居たでしょう?襲ってやろうという人だって居たんじゃないの?」
「居ただろうな。しかしもしそんな恨み僻みを持つ人に襲われたとしても・・もしかすると蒋経国は慫慂と受け入れたかもしれない。それを運命と受け入れたかもしれない。・・僕はそう思うな。鬼子母神として生きたことへの見返りがそれなら・・彼は運命に逆らわなかっただろう。」