アメリカンポップス成立前夜02/独り遊びのスティーブン・フォスター
Beautiful Dreamer「夢見る人/夢路より」は1862年、独りぼっちに打ち拉がれたスティーブン・フォスターが、ニューヨークの安アパートで書いた曲だ。南北戦争のさなかである。
彼はこの曲の稿了数日後に、アパートのトイレで転倒し洗面台へ頭部を激突させて死亡した。享年37才。死後、アパートの乱雑な机の上に残された譜面の束は、付き合いのあった音楽社が集めて持ち帰り、1864年に発売した。それがBeautiful Dreamer「夢見る人/夢路より」である。
その譜面の表紙には「最後の歌曲で、死の数日前に作曲された」と書かれている。
このシートブックは大ヒットした。しかし著作料は誰にも支払われなかった。妻子は遁走し「行方不明で音信不通だったから」という理由である。
葬儀は寂しいものだった。
Beautiful dreamer, wake unto me,
Starlight and dewdrops are waiting for thee;
Sounds of the rude world, heard in the day,
Lull'd by the moonlight have all pass'd away!
Beautiful dreamer, queen of my song,
List while I woo thee with soft melody;
Gone are the cares of life's busy throng,
Beautiful dreamer, awake unto me!
Beautiful dreamer, awake unto me!
Beautiful dreamer, out on the sea
Mermaids are chanting the wild lorelie;
Over the streamlet vapors are borne,
Waiting to fade at the bright coming morn.
Beautiful dreamer, beam on my heart,
E'en as the morn on the streamlet and sea;
Then will all clouds of sorrow depart,
Beautiful dreamer, awake unto me!
Beautiful dreamer, awake unto me!
美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
星の光と露の雫があなたを待っている
粗暴な俗世の喧騒は
月の光に優しく照らされ、すべては過ぎ去った
我が歌の女王、美しき夢見る人よ
あなたへの愛の調べを聴いておくれ
わずらわしい浮世の苦悩も消え去るだろう
美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
美しき夢見る人よ、海原に出よう
人魚たちがローレライの歌を口ずさむ
小川の上にかすみが立ちこめ
朝の日差しに消え行くのを待つ
美しき夢見る人よ、私の心の希望の光
小川や海の朝の中で
悲しみの雲は消えゆくだろう
美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ
Beautiful Dreamer「夢見る人/夢路より」は、おそらく19世紀に書かれた最も美しいセレナーデの一つだろう。なんとも哀しく傷つく男の悲哀に満ち満ちている。肥大化した男のナルシズムは、時おりこうした見事な昇華を見せる。塩坑道に投げ込まれたザルツブルグの小枝へ張り付いた塩片のように脆く美しく昇華する。
醜男の美学繊細さに生きたショパンも、生涯片思いですごした無愛想な男ブラームスも同じだ。晩年自宅に籠りきり怪異なオモチャを作り続けたサティもそうだった。
まさに彼らが紡ぐ音楽は「自己撞着のうちに沈む男」の奏でる哀歌である。生骨な繊細な美だ。
余談だが、僕は女性ピアニストのショパン/ブラームス/サティを好まない。彼女たちにかかると、こうした「乾いた脆さ」が瞬時に"粘液的な情"になってしまう。醜男の繊細な美(敢えて謂うならオタッキーな男の美)が吹き飛んでしまうからだ。ショパン弾きは男が佳い。
スティーブン・コリンズ・フォスターは、1826年、米国ペンシルベニア州のルイスヴィルで生まれた。
アイルランド系の一家で、彼は10人兄弟の末っ子だった。父親は鉱山事業で財を成した人で、州議会議員や市長を務めたりしていた。フォスターは思い切り甘やかされて育った。
彼の音楽の才能に気付いたのは母親で、個人教師を付けてもらった。そして18才の時1844年に最初の譜面集を発表した。「窓を開け、恋人よ」(Open Thy Lattice, Love)で16歳のときの作品である。翌1845年には弟と友人からなるセーヴル・ハーモニスツ重唱団のために「ルイジアナの美人」、「ネッド叔父さん」などを書いている。本人は得意満面だったが、父は彼の音楽への傾倒を苦々しく思っていた。
成人すると、フォスターはオハイオ州シンシナティで、兄の蒸気船海運会社で簿記係と働くようになる。しかし決して仕事熱心とは云えず、芝居小屋/ミンストレル・ショーに出入りしたりダンスパーティをはしごしたりする青春時代を送った。この時期から自作曲をこうした芝居小屋やパーティ会場で披露している。
新曲が枯渇していた楽団は、彼の曲を熱心に取り上げた。こうした中で「おおスザンナ」や「草競馬」が当たり、作曲家として知られるようにはなるが、金銭感覚に甘い所が有る彼は作曲活動からは自立できるだけの収入を得ることができなかった。
夢追い人に終始したのだ。
そして24歳のとき、幼なじみだったジェーン・マクダウェルと結婚。ジェーンは19才だった。
彼のヒット作「金髪のジェニー」は彼女のことである。二人は娘マリアンを授かっている。
当時、白人が黒人に扮して、面白おかしく歌い、踊る「ミンストレルショー」が人気を集めていた。フォスターは、こうしたショーのために沢山の曲を書いた。「おおスザンナ」や「草競馬」が当時の代表曲で、彼は作曲家として有名人となった。しかし収入はままならなかった。
なので28歳のとき、一大決心をして家族を連れニューヨークへ越した。ニューヨークはショービジネスの本場である。ここなら作曲業で生活できるだろうと踏んだのだ。
たしかに飛ぶようにフォスターの譜面は売れた。しかし生活は相変わらず困窮したままだった。
仕方なくピッツバーグに戻り、両親と共に暮らすようになるが、そのころフォスター家は立て続けに事業に失敗し凋落の一途を辿っていた。そんな実家にとって、自立できないフォスター夫婦は、厄介なお荷物でしかなかったのだ。
30歳のころ、両親と兄が続けて他界すると、実家まで人手に渡りフォスターは困窮した。しかし作曲家としては売れっ子だった。書けば売れた。しかし売れても売れても生活はとても支えられなかった。名声の高揚と生活困窮の落差に、フォスターは負けた。酒に逃げた。そんなフォスターを支え切れなくなったジェーンは、娘マリアンを連れて実家へ戻ってしまった。
傷心の彼は、ニューヨークへ逃げた。
南北戦争の最中である。ショービジネスは自粛モードに入っており、彼の曲は昔ほど売れなくなっていた。
売れなくても書く。そして幾ばくかの生活費を得るために、それを出版社に叩き売った。
その出口のない憂鬱のために、彼の曲はより甘く切ない曲調になっていった。
「主人は冷たい土の中に」「ケンタッキーの我が家」「オールド・ブラック・ジョー」いずれも根底にあるのは郷愁と哀愁だ。どうしようもない行き場のない憂鬱が深く埋め込まれている。
その悲哀が、聴く者の心を揺するのだろう。
僕はこうした自我肥大した男たちの作品を見るといつも思ってしまう。大衆は「自壊の美学」に憧れる。とてもそんな風には生きられないからだ。だからそんな自滅してくしかないマゾヒズムに、羨望の称賛を投げるのではないか。
フォスターは終始名声以外に何も持っていなかった。死直前に暮したボロボロのアパートにはピアノも無かった。彼はそこでBeautiful Dreamer「夢見る人/夢路より」を書いたのである。
ここで語られるBeautiful Dreamerは去って行ったジェニーのことだ。しかしそれは重ね絵のように「哀しく美しい」自分自身のことでもある。
それより少し前、彼は去って行った妻ジェニーを思って「金髪のジェニー」という曲も書いている。これは妻が去って行った5年後の作品だ。彼はその曲で失ってしまった妻への思いを切々と語っている。
・・しかし実はジェニーは金髪ではない。赤毛だ。フォスターは我が妻さえ実体ではない夢の中のものにしていたのだ。「スワニー河(故郷の人々)」もそうだ。彼はスワニー河を見ていない。沢山の黒人たちの哀歌も書いているが、黒人たちと彼との接点は殆ど無かった。大半が彼の脳内世界なのだ。彼は夢想の中に生きて、夢の中から出ないまま沢山の曲を描いたのである。
彼の墓は米ペンシルベニア州ピッツバーグの郊外にある広大なアルゲニー墓地にある。そのすぐ傍に両親や親族も葬られている。しかしそこにはジェニーの名前も実子マリアンの名前もない。死してもなおスティーブン・フォスターは独りぼっちのまま「独り遊び」の夢の中にいる。
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