小説特殊慰安施設協会#12/1-3特殊慰安施設協会
はじめ、協会役員は林穣の事業計画書に眉をひそめた。警察が望んでいるのはただの売春宿の経営だろう。キャバレーやビヤホール、ビリヤード場をやれとは言われていないぞ。言われてもいないことに金を使って大丈夫なのか?役員全員がそう思った。
しかし協会に大卒者は、林を含めて3名しかいない。そのうえ林は外遊経験もある秀才である。その林穣が滔々と語る事業計画を、面と向かって反対できるものは一人もいなかった。
林穣は、協会を管理組織である事務部門と運営組織である事業部門に分けた。そして、事務部は総務部、企画部、経理部、資材部、監査部、厚生部、営繕部に分けた。事業部は食堂部、キャバレー部、慰安部、遊戯部が中心で、そのほかに芸能部、特殊施設部、物産部を置いた。
そして実働部隊である事業部・食堂部の責任者を宮沢。キャバレー部の責任者を林穣。慰安部の責任者を高松とした。
何もない真っ新の図面の上に、林は、まさに総合商社のような見事な組織図を書いて見せたのだ。こうして8月26日、特殊慰安施設協会は銀座7丁目幸楽のビルに発足開業した。
その日の朝。大森海岸にあった米軍捕虜収容所から米兵救出が行われた同時刻ころ、8月26日午前8時20分。テンチ大佐を乗せた米軍機C54が厚木基地へ到着。これを厚木連絡委員会が迎えた。午前中に16機・146名が米軍先遣隊が到着。彼らによって8月30日にマッカーサーが厚木基地に来ることが日本側へ知らされた。
翌日29日。連合軍から指名された報道陣が次々に到着。米第8軍司令官アイケルバーカー中将も到着した。
そして1945年8月30日、夜明けと共に、沖縄の嘉手納基地から先ず第7航空軍が米陸軍航空輸送部隊が出発。総勢約150機が早朝に到着、次々に兵站を下すと共に厚木基地を完全平定した。
マッカーサーの到着は午後2時5分。迎えたのは米第8軍司令官アイケルバーカー中将だった。このときマッカーサーは「ハロー、ボブ。これで終わったよ。」と言った。. マッカーサーはそのまま、随行した幕僚と共に横浜のホテル・ニューグランドへ移動した。
その日、未明。
横浜湾と横須賀港へは、アメリカ第8軍が進駐。明け方には無数の米駆逐艦が両湾内を埋め尽くした。横浜への上陸は夜明け直前に始まった。横須賀は米海兵隊が上陸用舟艇で上陸。日本は確かにポツダム宣言を受諾し、敗戦を受け入れていたが、武装解除は未だ行われていない。きわめて緊張した上陸だった。横浜港はフィリピンから来た第8軍11軍隊第一騎兵師団「ファストチーム」が大桟橋に接岸し、上陸した。そして膨大な兵站の荷降ろしが各所で始まった。
横浜大桟橋に係留された輸送艦から降りてきた太平洋艦隊司令本部要員を迎えたのは、内務省によって組成された横須賀連絡委員会の担当者たちだった。その先導で彼らが接収先の横浜税関ビルに収まったころ、ようやく朝日が昇り切った。同時にさまざまな荷物が持ち込まれていく。
連合軍司令本部は、横浜税関ビルを接収すると、すぐに動き始めた。同日午後にはマッカーサー総司令官が、神風特攻隊の拠点だった厚木飛行場に降り立つ。そして、その足で横浜に入る予定だ。連合軍指令本部はそれまでに完全稼働状態にしなければならない。同時に、横須賀港・横浜港からの上陸、厚木基地からの上陸状況を弛まなく把握していなければならない。そして武装解除されていない日本兵によるゲリラを警戒しなければならない。本部を組み立てると共に、猛烈な仕事量を彼らはこなした。
こうやってまず横浜港から、日本は着実に連合軍の支配化へ入って行ったのだ。 そのことはもちろん、新聞・ラジオは伝えない。日本人の大半は知らないままでいた。大手新聞がこれを記事にしたのは翌日31日になってからだ。東京新聞だけが、同日夕方記事にしている。
8月31日金曜日。生暖かい雨がそぼ降る朝、宮沢理事長は定時に出社。そのまま別室に控えている鏑木部長と打ち合わせに入った。 これは日課になっており、宮沢理事長はその席で、鏑木部長からその日に訪ねる料亭についての説明を受ける。そして打ち合わせが終わると、警察から渡された黒塗りの乗用車に乗って出かける。同行するのはたいてい鏑木部長で、彼が札束がぎっしりと詰まったカバンを携帯。訪問先の料亭で話し合いがつくとその場で現金を渡し、物件を買い取るのだ。 8月26日の協会立ち上げの日から5日間、宮沢理事長はこれを毎日繰り返して来ていた。
しかし。考えてみればわかるのだが、たとえ資金が有ったとしても、そう簡単に料亭の売買話が決まるものではない。たしかに宮沢理事長は料亭組合の理事長ではあったが、それだけでそう簡単に売買が決まるわけがない。
この特殊慰安施設協会が、短時間の間にやった無数の不動産取得の陰に、筆者は不気味なモノの蠢きを感じてしまう。それが何か。ここでは触れない。ただ唯一触れるならば・・大竹広告が、その力の一部として協会の理事として入っていたのではないか・・という憶測だけにする。 高見順も、その陰に蠢くモノについて、彼の日記の中で口ごもりながらも触れている。
この日、その打ち合わせの最中に築地警察・高乗課長からの連絡員が来た。至急、林部長と宮沢理事長で、築地警察を訪ねてほしいとの連絡だった。
特殊慰安施設協会の警察側の担当者は高乗課長だった。彼は必ず口頭で報告を受け、指示を出していた。後になって関わりが諮問されそうな案件については、何も書面を残さない。それが警察のやり方である。
宮沢理事長は鏑木部長との打ち合わせを中止して、林譲と共に築地警察へ赴いた。
その年の1/3/5月と続いた銀座・築地の大空襲を避けて、築地警察の主要課は市ヶ谷へ移転していた。すべての課が築地に戻ってきたのは数日前のことである。署内はまだ混乱の中に有った。
宮沢理事長と林譲は、まだ解かれていない荷物が積まれたままの別室へ通された。 しばらくすると、そこに両手に書類を抱えた高乗課長が入ってきた。
「挨拶は抜きだ。さっそく本題にはいる。昨日、マッカーサー元帥が横浜に入った。そして同時に連合軍の総司令部が横浜に設置された。昨日夜より、そこから沢山の召喚状が各所に送られている。君たちにも来た。これがそうだ。内務省を経由して私の所に送られてきた。」
高乗課長は、林譲にそれを渡した。林譲は、さらっと目を通すと「防疫局・・からですか?」と言った。
高乗課長は、机の上に持ってきた書類の束を置きながら椅子に座った。「そうだ。あいつらは南方方面の慰安所で、兵隊どもが病気を伝染されまくったんだ。なので日本でも神経を尖らせている。」
「うちは病気もちはいません。」宮沢理事長が言った。
「今はな。すぐにアメちゃんが持ち込んでくる。」高乗課長が言った。
「どうすればいいんですか?」
「わからん。わからんが、とりあえず今の状況を説明せよとの召喚だ。」 「了解しました。何時ですか?」林譲が言った。
「週明けの9月3日だ。俺も同道する。内務省からも独り参加する。しかし、話をするのは君らだ。説明用の書類を用意するのも君らだ。」そういうと、目の前の書類の束を、林譲の方へグッと押した。「もちろん、書類は全て英語にしてくれ。」高乗課長が言った。
林譲は、黙って高乗課長の顔を見つめ続けた。
「土日で作ってくれ。出来るだろう。あの、新しく入った英語の堪能な婦人がいるから大丈夫だろう。」高乗課長が笑わないままいった。
「英語が堪能な婦人」とは、萬田千鶴子のことだった。
「了解しました。用意します。」林譲が小さい声で言った。