本所新古細工#09/柴又の伊興遺跡
ほんとはこのまま伊興遺跡の話まで区を跨いでしたい。伊興遺跡は、東京近隣の古墳群だし、なおかつ一部が保存されているからね。都内及び都周辺の遺跡は大半が度重なる開発によって破壊され尽くして見る影もないから・・その意味でも、すくなくとも「見る影」くらいは残ってる伊興遺跡は、過去への幻視の旅の強い縁(よすが)にはなる。だから足立区東伊興4丁目にある伊興遺跡公園展示館と園内に再現されてる(聊かチープな笑)竪穴式住居と方形周溝墓を書きたいけど・・
もし伊興遺跡の話をするなら・・新しく「足立新古細工」という稿も起こそう!ということにして、ここではもう少し近場の話をする。もし気になるようだったら伊興遺跡公園(竹ノ塚駅からわりと遠い)を訪ねてみてください。
ところで。都近郊に「古墳跡」ってどのくらいあると思いますか?
主たるものは13。柴又八幡神社古墳/南蔵院裏古墳/熊野神社古墳/栗山古墳群/甲府台古墳群/法皇塚古墳/伊興遺跡古墳群/赤羽台古墳群/十条台古墳群/飛鳥山古墳群/田端西台通遺跡/上野台古墳群/素盞雄神社。
出土物は出ているが、古墳としては残念ながどれも大半が削平されている。すべて縄文後期から古墳時代AD500~くらいの集落跡である。上下とも、房総は武蔵北部/常陸/安房を繋ぐ文化圏として充分機能していたとみるべきだろう。
往時を窺う縁(よすが)として「柴又八幡神社古墳」の話をしよう。柴又八幡神社境内(東京都葛飾区柴又3丁目)である。もちろん墳丘跡はなにもない。しかし社殿内には、横穴式石室が再現保存されている。ここは区指定史跡、1976(昭和51)年指定。出土遺物も2011(平成23)年に東京都の有形文化財・考古資料に指定されており、小規模だがきわめて興味深い。
発掘された埴輪の一つが柴又だからね「寅さん」そっくりというのがある。なかなか商売上手な方がおられるもんだ。
ところで。寅さん絡みで柴又八幡神社の前にある柴又帝釈天の話をちょいとすると・・こちらは建立が1629年寛永6年である。明暦3年(1657年)の振袖火事以降に起きた隅田川以東の再開発の一環として作られた日蓮宗寺院である。神社としては柴又八幡神社ほうが古い。柴又村の鎮守社だった。・・おそらく古墳の跡に作られたサンクチュアリだったに違いない。
「新編武蔵風土記稿」の中にも、柴又村の条に「八幡社 村ノ鎮守ナリ。真勝院持」とある。
明治7年に編纂された「東京府志料」には「柴又八幡神社 村ノ鎮守ナリ。末社四宇アリ。社地九十坪」とある。
・・蛇足だが「東京府志料」は、明治5年(1872)陸軍省が指令した調査で明治7年に東京府によって完成している。120冊の大巻で、明治時代の「新編武蔵風土記稿」ともいうべき資料だ。東京都公文書館で閲覧できる。
この八幡神社に、上代のものが遺っていることは江戸時代から知られていた。鎮守社だったからね。
しかしそれが確証されたのは意外に最近で、1965年に社殿改築のときに色々な埋蔵物が発見されたのがきっかけだったという。それを1989年から民間レベルの「葛飾考古学クラブ」と区の「葛飾区郷土と天文の博物館」がジョイントして、本格的に発掘調査をした際、社殿周辺地下から墳丘と周溝が明快に分かる状態で発見された・・という経緯である。
実はね、都近郊にある「古墳跡」の中で、石室が残っているのはこの柴又八幡神社古墳だけなのだ。
ちょいと、学術っぽくdataでいうと、墳丘規模は長さ30m程度の前方後円墳。これほどはっきりと痕跡が確認されたのは徳内では初めてだった。このときに出土した埴輪は典型的な下総形埴輪(特徴的な円筒形埴輪)で、同形式の埴輪分布域の最西端である。このことは安房文化圏を考えるとき、極めて興味深い。石室は横穴式。石材は房総半島から運ばれてきたであろうものだった。
朝、気紛れに京成金町線柴又駅に立つ。
見つめるのは帝釈天ではなく、柴又の鎮守社・柴又八幡神社だ。そして思い浮かべるのは古代の下総台地だ。
丘陵部から江戸湊に繋がる平野部にまだ大きな集落はそれほどないがクニはある。クニは相互に商圏を重ねている。しかし間違いなく格差はある。・・脳裏に浮かぶのは市川市国府台にある法皇塚古墳だ。全盛期のそれだ。前方後円墳で全長は54.5メートル。柴又八幡神社古墳のほぼ2倍。石室全長は7.55mである。間違いなくクニの王の墓だ。一方、柴又八幡神社古墳はどうだろうか?土地の有力者程度だろうか?はっきりと、その経済格差を感じる。
おそらく・・まったく妄想だが・・エビデンスはない。
前述した、香取の海を主核として北関東と房総を繋ぐ「无邪志(北武蔵の旧埼玉郡地方)/葛飾野(下総の旧葛飾郡地方)/安房(房総半島南部)間」交易ルートが確立したとき、丘陵部にそれを支えるためのクニが作られたのではないか?
そしてその丘陵部に立ち上がったクニ(生産力と武力を持った)に対して、江戸湊へ流れる平野部にむけて、枝のように何本もの平野部/海岸部の生産物を吸い上げる交易ルートが作られたのではないか??そんなイメージを浮かべてしまう。地勢に張り付いた産業の濃淡を強くイメージしてしまうのだ。