葛西城東まぼろし散歩#15/江戸より古い下総02
関東以北で、日本列島統一王朝が興した中央集権化の中核を為したのは「香取の海」だった。
香取の海は、関東平野中心部から流れる河川が生み出した広大な湿地地帯である。当時大型の物流は河川を利用するため、香取の海は大いに栄えた。万葉集の中にも香取の海は幾つも散見する。
「なつごろも かとりのうらのうたたねに 波のよるよる かよふあき風」
此の地を中央の人々は「総(うさ)」と呼んだ。総とは麻を指す。『古語拾遺』に、天富命が阿波地方の斎部をこの地に派遣し麻・穀木を植えさせたところよく育ったので総国(ふさのくに)と名づけたとある。・・太平洋に近い方を上総と呼び、遠い部分を下総と呼んだ。そして8世紀初め(714)に上総から平群/安房/朝夷/長狭の四郡を抜いてこれを安房とした。房と総で房総である。
「このころから、上総/下総という括りが使われ始めた。香取の海の中心部が上総。そして北西側が常陸国そして南西側が下総だ。
上総は今の千葉県中部にあたる。日本列島統一王朝はここに管理体制を置いて関東を掌握していた。しかし、家康さんが利根川を大きく動かしたんで、彼以降の香取の海は霞ケ浦くらいまで細くなった。水が引ければローム層の滋味少ない乾いた土が露呈するだけで・・上総は「交易」という主たる産業を失って次第に凋落していったんだ。江戸時代にはもうすでに上古の繁栄は殆ど消え去っていた」
「すごい話ね。家康さんは、江戸を不動のものにするために香取の海を滅ぼしたの?」
「そういうことだ。」
「下総は?」
「下総は、香取の海より江戸湊に寄りかかっていた。南西側だったしね。‥今でいうと、下総は千葉県北部/茨城県南西部/埼玉県東辺そして隅田川東岸の東京都東辺までを指すんだ。
・・たしかに総の国が立ち上がった頃、下総は上総に付帯する立ち位置だった。香取の海を利用した交易に付帯する産業で成立していた地区だったんだ。近畿の中央政府と関東を繋いでいたのは海路(東海道・つまり東海を通る道)だったらな。下総の民は、香取の海にブル下がっていたんだよ。まあ仕方ない話だな。ところがだな。さっきも言ったけど、日本列島統一王朝は海路以外のロジスティック・ルートを望んでいた」
「どうして?」
「出兵だよ。兵士は徒歩で移動するからさ」
「戦争のため?」
「ん。武力による制圧のため。陸路は必須だったんだ。・・ンじゃあ近畿と関東東北を繋ぐルートの最古はと云うと」
そう言って僕はもう一度地図をだした。
「今の中山道だな。京都から始まって日本の山間部を抜ける全行程534kmだ」
「諏訪を通る道?でも山が険しいでしょ?」
「ん。しかし大きな渡河がない。これが重要だ。陸路は渡河が大きなキーワードになる。大河を跨ぐのは至難だったんだよ」
「なるほどねぇ。軍隊が、太平洋岸を徒歩で抜けるのは難しかったのね。たしかに太平洋側は大きな川が幾つも有るわ」
「そうなんだ。そのため太平洋側を通る東海道は・・東海の道/海路だったんだよ。景行天皇もヤマトタケルもすべて、海路を利用して統制したんだ」
「・・その関東側の帰着点地が房総半島/香取の海。なるほどねぇ、なんとなく位置関係が分かったわ」
「しかしだな。日本列島統一王朝は、海路以外のロジスティック・ルートを望んでいた。東海道が陸路として整備されたのは宝亀2年(771)だ。このとき東海道は、武蔵の国を通って下総を繋いだ。そのため下総にも国府が市川市国府台付近へ置かれたんだ。この頃から下総は上総に付帯する地区ではなくなった。自律性が成立した」
「香取の海で運ばれたお手伝い以外の仕事がで出来たの?」
「ん。いいとこ突くね。牧だ。馬を放牧する有力者が幾つも出来た。葛西氏/市川氏/もっと西の豊島氏など、当時の上総の有力者はすべて牧を産業として持っていたんだ。たしかに交易の仲介は、とても重要な産業源だったけど、馬を育てることで下総は強く日本列島統一王朝に繋がっていたんだ」
「源頼朝?」
「ん。そうだ。彼はこの地で反乱軍を組成した。下総の有力者を束ねて騎馬軍団を作り上げ、平家打倒へ進んだ。そのため源氏が組成した鎌倉幕府の要人は下総の有力者が多かったんだよ」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました